井上馨(いのうえ かおる、天保6年11月28日(1836年1月16日) - 大正4年(1915年)9月1日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家、実業家。本姓は源氏。清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む安芸国人毛利氏家臣・井上氏。首相・桂太郎は姻戚。同時代の政治家・井上毅や軍人・井上良馨は同姓だが血縁関係はない。

幼名は勇吉、通称は長州藩主・毛利敬親から拝受した聞多(もんた、ぶんた)。諱は惟精(これきよ)。太政官制時代に外務卿、参議など。黒田内閣で農商務大臣を務め、第2次伊藤内閣では内務大臣など、数々の要職を歴任した。栄典は従一位大勲位侯爵、元老。

政界から引いた後、一時は三井組を背景に先収会社(三井物産の前身)を設立するなどして実業界にあったが、伊藤の強い要請のもと復帰し、辞任していた木戸と板垣の説得に当たり、伊藤に説得された大久保との間を周旋し両者の会見にこぎつけ、明治8年(1875年)の大阪会議を実現させた。同年に発生した江華島事件の処理として翌明治9年(1876年)に正使の黒田清隆と共に副使として渡海、朝鮮の交渉に当たり2月に日朝修好条規を締結した。
6月に欧米経済を学ぶ目的で妻武子と養女末子、日下義雄らと共にアメリカへ渡り、イギリス・ドイツ・フランスなどを外遊、中上川彦次郎、青木周蔵などと交流を結んだが、旅行中に木戸の死、西南戦争の勃発や大久保の暗殺などで日本が政情不安になっていることを伊藤から伝えられ、明治11年(1878年)6月にイギリスを発ち7月に帰国した。

明治34年(1901年)の第4次伊藤内閣の崩壊後、大命降下を受けて組閣作業に入ったが、大蔵大臣に大蔵省時代からの右腕だった渋沢栄一を推したところ断られ、渋沢抜きでは政権運営に自信が持てないと判断した井上は大命を拝辞するに至った。

組閣断念の理由について、歴史家の村瀬信一は渋沢を初めとする財界が政治との関わり合いを嫌ったこと、同じ長州派の伊藤と山縣有朋が憲法、軍事で成果を上げ、それぞれ立憲政友会、官僚集団といった基盤を備えていたことに対し、外交・財政いずれも功績を残せず、政党と官僚閥とも繋がりがなく、財界以外に基盤がない点から内閣を諦めたと推測している。

大命拝辞した後は後輩の桂太郎を首相に推薦、第1次桂内閣を成立させた。桂政権では日露戦争直前まで戦争反対を唱え、明治36年(1903年)に斬奸状を送られる危険な立場に置かれたが、翌37年(1904年)に日露戦争が勃発すると戦費調達に奔走して国債を集め、足りない分は外債を募集、日本銀行副総裁高橋是清を通してユダヤ人投資家のジェイコブ・シフから外債を獲得した。

明治40年(1907年)侯爵に陞爵した。明治41年(1908年)3月に三井物産が建設した福岡県三池港の導水式に出席した時に尿毒症にかかり、9月に重態に陥ったが11月に回復、明治42年(1909年)の伊藤の暗殺後は西園寺公望や松方正義などと共に元老として、政官財界に絶大な影響力を持った。

明治44年(1911年)5月10日、維新史料編纂会総裁に任命された。
明治45年(大正元年・1912年)の辛亥革命で革命側を三井物産を通して財政援助、大正2年(1913年)に脳溢血に倒れてからは左手に麻痺が残り、外出は車椅子の移動となる。

大正3年(1914年)の元老会議では大隈を推薦、第2次大隈内閣を誕生させたが、大正4年(1915年)7月に長者荘で体調が悪化、9月1日に79歳で死去した。葬儀は日比谷公園で行われ、遺体は東京都港区西麻布の長谷寺と山口県山口市の洞春寺に埋葬された。戒名は世外院殿無郷超然大居士。

生前から井上の生涯を記録する動きがあり、三井物産社長の益田孝と井上の養嗣子勝之助が編纂して大正10年(1921年)9月1日に財政面を主に書いた『世外侯事歴 維新財政談』が上・中・下の3冊で刊行された。
昭和2年(1926年)に勝之助の提案で井上の評伝を作ることが決められ、昭和8年(1933年)から翌9年(1934年)にかけて全5巻が刊行された。
また、これとは別に伊藤痴遊が明治41年に井上の快気祝いとして評伝『明治元勲 井上侯実伝』を、大正元年に『血気時代の井上侯』を出版している。
(資料ウィキぺデア)

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経済あれこれ
久原房之助  2010-07-28 03:00:20 | Weblog
久原房之助が創始した久原鉱業所と言っても現在知る人はほとんどない。
しかし日産自動車、日立製作所、ジャパンエナ-ジ-は現在の日本を代表する企業である。房之助はこれらの会社を創立したというより、その基礎を作った。
同時に彼は明治末から大正時代にかけて出現した、富豪・成金の代表でもある。
鉱山開発で巨万の富を作り、それを公私両面にわたって蕩尽したことは事実。一時期彼の資産は2億5000万円とも言われた。

久原家は長州(山口県北部)の須崎で庄屋を務め、益田藩の財政にも関与し、苗字帯刀を許された御用商人だった。益田氏は長州毛利藩の家老で12000石を給され、その支配地は自治を許されていた。ここでは便宜上益田藩と呼びますが、幕府法制上正式な呼称ではない。

1956年(文久2年)久原家当主半平は暗殺されます。益田家の仕業です。さらに米買占の悪評を立てられ、藩民から白眼視される。
半平の養子である庄三郎はすぐ、須崎を捨てて萩に移り、そこで商売を始めた。房之助は萩で1969年(明治2年)に生まる。
庄三郎の商売はなかなかうまく行かなかった。庄三郎の実家である藤田家の三男伝三郎はすでに大阪に出て事業を始めていた。

藤田伝三郎についてはすでに述べてある。1874年(明治7年)久原庄三郎は弟の伝三郎を頼り大阪に出る。
同年藤田三兄弟、藤田鹿太郎、久原庄三郎、藤田伝三郎が、藤田組を立ち上げた。
一応兄弟会社になっているが、実権者は末弟の伝三郎だった。伝三郎達は長州閥の人脈をたどり、大阪鎮台の司令官山田顕義から軍靴製造を委託される。
これが藤田組成功の第一歩である。
西南戦争では軍靴製造に加えて、人夫の手配と輸送を請負、組発展の基礎を築いた。
西南戦争では、運輸は岩崎弥太郎、人夫手配は西の藤田に、東の大倉が引き受ける。岩崎、藤田、大倉とも以後富豪・財閥として栄えたが、発展の基礎は、西郷隆盛が画策した西南戦争がきっかけだった。

西南戦争では莫大な戦費が投入され、政府は紙幣を乱発する。
借金して事業をし、儲けたら、下がった価値の紙幣で払う、二重三重の儲けになという算段である。1881年(明治14年)藤田組は資本金6万円、内藤田伝三郎3万円、藤田鹿太郎と久原庄三郎各15000円の持分で同族会社を正式に作った。
 
1879年(明治12年)萩に残されていた房之助母子達は大阪に移住する。
同年藤田組最大の事件(災禍)が起った。当主の伝三郎に紙幣贋造の疑いがかかり、多くの幹部が逮捕され、厳しい取調べを受ける。結果は無実たが、これは西南戦争で長州閥に遅れをとった薩摩閥の陰謀のとみられていた。藤田伝三郎が懇意にしていた井上馨追い落としが意図されていた。

この井上馨という人は、明治経済界のどこにでも顔を出す人で、裏工作の専門家であり、経済界の重鎮として通っていた。

 房之助は1880年、12歳で東京商法講義所に入学。この商法講義所は後に、東京商業学校、東京高等商業学校、そして現在の一橋大学になる。3年後卒業、実務に早く就く事を希望する父親庄三郎に嘆願し、福沢諭吉に憧れて慶応義塾に入る。3年後卒業、房之助は森村市左衛門の作った森村組に押しかけ就職をした。始め森村は房之助のような金持の子弟は使い物にならないと就職依頼を拒絶した。

房之助は強引に嘆願して、神戸支店倉庫係に採用される。彼の勤務振り、特にその仕事処理の独創性を支店長から聴いた森村は、房之助を抜擢して、ニュウヨ-ク支店勤務を命じた。

房之助は欣喜雀躍するが、ここで強力な反対に出会た。藤田組の後援者である、井上馨の反対です。藤田組の御曹司がなぜ藤田組に入らないのだ、と井上は言う。井上の言葉には伝三郎ですら逆らえなかった。なくなく房之助は森村組を辞した。房之助が遣られたところは、秋田県小坂にある小坂銀山だった。しかしニュウヨ-ク行き挫折に対する無念は終生彼の人生について回っていた。

1891年(明治24年)22歳、房之助は小坂鉱山に赴任した。彼の月給は10円、鉱夫でも8円。小坂鉱山は戦国時代から銀山として有名たが、当時掘りつくされ、藤田組としては廃坑か売却を考えていた。
房之助はニュウヨ-ク行きを断念した結果が、廃坑の後始末ではかなわないと思い、なんとか鉱山の再生を考える。
銀鉱は掘りつくしたが、黒物(黒鉱)は充分にあった。黒鉱とは、銅、鉄、鉛、亜鉛、硫黄に少量の金銀を含む複合物。これをなんとかできないかと房之助は考えた。

特にそこから銅を抽出する事を考える。東大工学科卒の新進気鋭の武内雅彦を迎え、彼の卒業論文のテーマは自溶製錬法である。最新式の精錬法です、自溶精錬法とは、燃料を加えることなく、鉱石内部の成分の燃焼で製錬する方法。この方法なら燃費もかからず、幾多の実験の末に、精錬は成功した。
藤田組本社では房之助は廃坑に努力していると思っていた。房之助はこの本社の方針を、覆そうとする。ついに井上馨に応援を求めね明治31年の銅生産額は360トン、翌年は833トン、産額はどんどん増加し明治39年には7000トンを超る。産出額総体は現在の金額に直すと1000億円と想像された。小坂鉱山は銀山から銅山に生まれ変わったのである。 
 
この間藤田組本社は経営危機を迎えていた。
鉱山開発や工事請負、投機に手を広げすぎて、失敗が多く多額の借金を抱えていた。井上馨の斡旋で毛利家から金を借りまる。
数度に分けて総計200万円以上の借財を毛利家から負う。
当主伝三郎以下の幹部の俸給も制限され、経営権は毛利家に移った。
房之助の小坂鉱山での成功により藤田組の借財はなくなった。

併行して藤田三兄弟の間で財産分与をめぐっての争いが起る。当主の伝三郎家に財産管理を集中する企てが進行していた。すでに久原家の当主になっていた房之助は反対し、結局房之助は470万円を分与され、藤田組から分かる。小坂鉱山を成功させ、藤田組の危機を救った彼としては不本意であった。

鉱山経営、財産争い、本社の危機など多事の中、明治33年31歳、房之助は鮎川弥八の次女清子と結婚する。彼女の兄が後に日産コンツエルンを作った鮎川義介。
鮎川についてはすでに彼の列伝で述べてある。
また鮎川兄妹の母方の叔父が、今まで再々出てきた井上馨である。なお房之介は正式に結婚する以前から、彼はある女性との間に一女を設けていた。
この娘「久子」が後石井光次郎と結婚し、その間にできた娘が、シャンソン歌手で有名な石井好子である。
このようにして久原家は二重三重に長州閥で囲まれていた。また房之助は別に球子という女性との間にも多くの子を作っている。昭和17年、後年清子は房之助と協議離婚した。3人の女性に産ませた子供や孫達は房之助の屋敷に集まり、みな仲良くしていたと言う。久原家は解放的なそしてかなり猥雑な家風であったと想像された。
 
1905年藤田組を退社した房之助は、茨城県の赤沢銅山の売買契約を締結し、久原鉱業日立鉱山の名に変更して、鉱山経営に乗り出す。
この時三井銀行から50万円の融資を受け、仲介者は例の井上馨である。
房之助は鉱山経営にすべて斬新な方針で臨みた。まず発電所を造り手掘りをやめて、削岩機を使い機械掘りにし電気鉄道を鉱山全体に走らせる。さらに鉱山と常陸海岸の間に、中央買鉱製錬所を作った。
これは将来鉱山の産出額が低下した場合、他の鉱山から鉱石を買って、製錬するためである。またダイアモンド式試錘機を使い、試錘探鉱を行う。断層にぶち当たるが、なんとか鉱脈を探し、鉱山開発に成功する。

房之助を慕って、多くの人材が日立に来た。彼らの内重要な人物は小平浪平と竹内雅彦だった。
小平は発電機の修理を担当していた。そのうち自分で発電機を作るようになり、機械を組み立てた。
房之助はあまりこの方向には関心がなく賛成ではなかつたが、小平の試みを黙認していた。
小平の試みは発展し、1912年久原鉱業日立製作所の開設に至る。
現在の日立製作所である。竹内雅彦は後に経営危機に陥った久原鉱業を受けつぎ、この会社は現在のジャパンエナ-ジ-になる。

日立鉱山は開業3年目くらいから経営は軌道に乗り、銅の産出額は増加し続け、1916年(大正5年)には37000トンを産出している。
第一次大戦で銅の需要は急増し銅価は上昇し房之助は大富豪になる。盛時における彼の資産は約2億5千万円になると推測されていた。
当時の国家予算がだいたい10億円ですから、彼の資産は国家予算の25%になる。現在の規模に換算すれば25兆円に昇ります。まさに大富豪だ。
また大戦景気に乗っているので成金でもあり久原家の故地須崎に行き、公園や埠頭に波止場などの大規模な寄付を行っている。

房之助の祖父半平の非業の死と、言われ無き悪評の払拭、町民の冷眼視への反発、そして成功顕示などいろいろな気持が混ざっていた。
しかし須崎町民の反発は一部には残っていたようで、房之助の寄付行為の記録は一切ない。
政界への寄金もし、亡命していた孫文にも300万円政治資金を融通している。東京、大阪、京都そして神戸に豪邸を作った。
すべて10000坪以上の規模である。成金がするように不必要なほどに贅をこらした。大阪中ノ島に豪壮な本社を造る。突起すべきは山口県下松(くだまつ)に造船所を造る構想を持ったこと。土地はどんどん買い占め市民も大喜びした。

造船所から発展して、機械製作に進み、日本のクルップになるつもりだった。しかし大戦勃発のために、アメリカが鉄鋼の輸出を禁止したために、この計画は無しになる。
房之助は京浜海岸に臨海工業地帯を作る計画も経ていた。これらの計画は房之助自身の手にはならなかった。小平浪平の日立製作所が代表だが、京浜臨海工業地帯も事実上出現しています。

第一次大戦を機に房之助は、海外開発、商事部門の設立、そして重工業機械工業への進出を試みる。銅の価格は変動する。それに対処するために、彼は以下のような処置をとつた。
価格が低迷している時は、設備の改善に尽くす、価格が上がったら増産する。このやり方は為替についても応用でる。円高になったら設備改善に努め、研究に投資し、円安になったら増産して輸出する。

第一次大戦の2ヶ月前までが、房之助の絶頂期だった。彼は欧州戦線の動向に常に注視していた。戦争が終わりそうな時に経営を縮小する予定だった。欧州各国に派遣した駐在員は「戦争終結近し」と判断したら、「プラチナ高い」という暗号電報を送るべく、指示されていた。終戦の2ヶ月前にこの電文は届きます。
しかしなんの事か解らない新米社員はこの電文を無視する。そのために久原鉱業は終戦に備える事が出来ず、大損をした。しかしこの話はおかしい。

本当にそうなら久原鉱業の幹部は房之助も含めてぼんやりしていた事になる。この前後房之助は腸チブスを患い生死の境にあった。気力体力共に低下し、生死の問題であるから、会社どころではなかった。
当時この病気は死に至る病である。抗生物質もない。病原菌と本人の体力との勝負だけだ。しかし腸チブス原因だけでは説明できないものが残る。
要は房之助の性格と思われた。
彼には財産防衛という考えはない。儲けたら儲けただけ蕩尽するタイプ。三井三菱住友また藤田組のように家訓を作り、当主の恣意を掣肘し、同時に当主中心に資産が集まるような、処置を房之助はしていなかつた。金融業にも熱心ではなかった。

経済人としての久原房之助はここまでだつた。彼は急速に事業経営に関心を失い彼のロマンをかなえそうなものは政治である。
久原鉱業は義兄の鮎川義介に委ねる。鮎川は北九州ですでに若干の工場を経営していたが、危機に陥った久原鉱業を引き受け、そこから後に日産コンツエルンといわれる一大重化学工業の結合体を作り上げた。この中で一番有名なのは日産自動車です。
 
1928年(昭和3年)立憲政友会に入党する。同郷の宰相田中義一の勧めだった。山口一区から出馬して当選し、そのまま逓信大臣になる。1931年政友会幹事長に就任。この出世の速さはやはり彼が抱える資金によるものだった。少なくとも彼には日産と日立が背後にあった。

1936年(昭和11年)2・26事件に巻き込まれ、謀議の疑いで逮捕される。約8ヶ月収監され、証拠不十分で無罪になる。有罪なら死刑は免れない。普通ならこの辺で政治生命は絶たれるのだが、1939年(昭和14年)政友会総裁に推される。
もっとも彼がしたことは、政友会の解散だった。大政翼賛会のさきがけを務めたようなものだった。

2・26事件での入獄から帰った時、房之介の債務は約1億円だった。鮎川他が解決に努力する。房之助は20年の年賦で返却する事を約束する。この時点で彼は69歳だった。本当に返却を信じた者はいたのだろうか。しかし20年後の昭和32年房之助は債務のすべてを返した。そして彼自身には井戸と塀のみが残った。
 
戦後A級戦犯に指定されかける。房之助が孫文に贈った300万円のおかげで指定を免れた。普通なら昭和24年に解除だが、勝手に私有地を売却し、公職違反の規定に反し、さらに2年解除を延長される。戦後も代議士になった。しかし房之助の影響力を恐れた吉田茂の反対で入党はつぶされた。一時期久原内閣という噂もあったくらいだ。

昭和40年、97歳で死去。堂々たる大往生。彼が基礎を作った会社は主なもので4つある。日産自動車、総合電機メ-カ-の日立製作所、石油開発精製・石油化学のジャパンエナ-ジ-、非鉄金属開発加工・電子部品製造の日鉱金属。すべて久原鉱業の分家だ。そしてこれらの永続する堅実な企業は房之助の親族や部下により受けつがれて発展した。
「参考文献 惑星が行く、久原房之助伝」


牧 相信の面影 -Biglobe
同じ頃、藤田組は小坂鉱山や大森銀山(石見銀山)の払い下げも受けており、その資金は長州毛利藩から20万円の借金をした。 明治23年1月の藤田組から共同鉱山への譲渡の復命書に「・・翌廿七日 藤田伝三郎代理人 木村復次 牧相信 及関係人 河端熊助」
(記事引用)