越天楽今様 ①春のやよい」
2012-11-08 07:55:19 | 日本龍の声サイト
『越天楽』(えてんらく)は、雅楽の演目である。舞は絶えて曲のみ現存している。雅楽の曲のなかで最も有名な曲である。楽器は主に8種類。管楽器、弦楽器、打楽器に分かれている。
原曲は中国・前漢の皇帝文帝の作品と伝えられている。しかし高祖・劉邦の軍師張良の作曲であるという説や、日本での作曲である説などもあり、実際の所はよくわかっていない。
越天楽に歌詞をつけたのが『越天楽今様』であり、特に有名なのは、800年もの昔、雅楽のメロディーに天台宗の名僧・慈鎮和尚が作った「春のやよいの…」で始まる歌詞である。また「黒田節」、巫女が奉納する「浦安の舞」「豊栄の舞」も、現代版越天楽今様と言って良い。
古謡、『越天楽今様 春のやよい』は、日本に小学校唱歌が誕生して以来、今日まで、脈々と民族の魂を子どもたちに植え付けてきた。小学唱歌集/初編(明治14年11月)に採用された。それは、外国の音楽を導入しつつも、翻訳唱歌ではなく、日本独特の「国樂」を目指した明治の先覚者の心意気を象徴する曲選びであったと言える。

「越天楽今様 春のやよい」 ・雅楽 慈鎮和尚 作詞

春のやよいの あけぼのに
四方(よも)の山べを 見わたせば
花盛りかも しら雲の
かからぬ峰こそ なかりけれ

花たちばなも 匂(にお)うなり
軒のあやめも 薫るなり
夕暮さまの さみだれに
山ほととぎす 名乗るなり

秋の初めに なりぬれば
ことしも半ばは 過ぎにけり
わがよ更けゆく 月影の
かたぶく見るこそ あわれなれ

冬の夜寒の 朝ぼらけ
ちぎりし山路は 雪ふかし
心のあとは つかねども
思いやるこそ あわれなれ
(引用歌詞抜粋 龍の声)~


『大東亞戰爭終結ノ詔書』 2015-08-22 08:41:51 | 日本


副島隆彦の学問道場
武士、官僚、政治家、軍人 田中光顕について
 さらに右翼暴力団を使って田中光顕はすきあらば牧野伸顕を暗殺しようとしていたようだ。当時、すでに、血盟団事件(1932年2月~3月)に井上準之助、団琢磨などの三井の要人暗殺があり、血盟団事件の第二弾として、1932年5月15日には三井財閥系の犬養毅首相の暗殺が首相官邸で行われた。そういう時代に、田中光顕が牧野内大臣暗殺を目論んでいたと、木戸幸一は警視総監からの情報として記している。井上日召のような「昭和維新派」というのが、田中光顕・頭山満のような三菱マネーで育てられた裏社会の人間によって育成されていたのであり、単に昭和維新の背景に格差問題を見るだけなのは読みが浅いのだろう。

 これは私の感想であるが、すでに陸軍内、海軍内も軍閥化が進みつつあったのだと思う。1930年にはロンドン軍縮条約問題があり、対英米協調の条約派とナショナリスティックな艦隊派に海軍が二分している。陸軍においても、1930年に桜会という秘密結社ができて、日本の軍事国家化が進められていた。

 田中光顕が1932年の5.15事件や1936年の2.26事件の首謀者の青年将校に対する助命嘆願を願い出ていることからも分かるが、田中光顕は皇道派の側に立って、昭和維新を断行するのを支援していたのだろう。それは井上日召に対して、「儂は今年で八十三になるが、まだ三人や五人叩き斬るくらいの気力も体力も持っている。君達もしっかりおやり!」と励ましたあたりからもうかがい知れるのである。

 一木宮内大臣を失脚させるだけではなく、田中光顕は新聞を利用して、「内大臣廃止論」を発表している。牧野内大臣への権力闘争である。鬼塚氏は牧野が二・二六事件で暗殺されなかったのは、田中との権力闘争において、牧野が軍門に降ったからだとしている。その根拠として、枢密院議長人事において、西園寺が推した一木元宮内大臣(1934-36)の後任に、右翼の平沼騏一郎が1936年3月に選ばれたことを上げている。

 牧野や西園寺にとって、右翼団体を動かしながら、宮中の枢要なポストを廃止しろと言ってきたり、息のかかった平沼を押し込もうとした田中光顕は非常に恐ろしい人物だっただろう。

 鬼塚氏は、田中光顕が右翼を使って宮中の乗っ取りを画策していることについて、『西園寺公と政局』(1934年12月30日)の記述を根拠としている。この日の日記には、「例の国家改造運動、即ち田中光顕とか内田良平とか頭山満などを看板にしてやる右傾の大合同の合理的国家改造運動」の話が出てくる。この中には大本教も入っており、この運動が「宮様内閣」を作る運動であることが述べられている。鬼塚氏は以下のようにこの日記の記述を更にわかりやすく解説する。

(引用開始)

 この運動が二・二六事件へと発展する。あの事件は青年将校たちの反乱と見るべきではない。「右傾の大合同」による宮様内閣(秩父宮首班)を目的としたものだった。田中光顕は、大日本生産党総裁並びに黒龍会主幹の内田良平、そして玄洋社の頭山満と内々に通じあい、大本教も含めた「右傾の大合同」の合理的国家改造運動を進めていたことが、この『原田日記』から理解できる。

『日本の本当の黒幕』(下)252ページ
(引用終わり)

 要するに、2・26事件を「青年将校の思い」という視点で見ると大きく本質を見誤るということだろう。大本教という新興宗教も田中光顕の道具だったに過ぎない。明治維新のすべてを知る男、田中光顕は、宮中への影響力を保とうと、右翼団体まで動員して国家改造をしようとした。明治維新の立役者が、昭和維新の黒幕でもあったという身も蓋もない話である。感情的に暴走した若者をクーデターに駆り立てるのが黒幕の仕事である、ということを私はこの鬼塚本によって再確認した。

 世界大恐慌が始まる前後から、日本の政治に軍閥というものが入り込んできた。これは軍隊における権力闘争の派閥であるが、同時に、それ以外にもそれぞれのシンパというものがいたということで、テロによって政治を変えようとする動きが本格化していって、その黒幕にいたのが、宮中を追い出されて、一時西園寺との権力闘争に敗れた田中光顕だったということである。そして、田中光顕は三菱マネーで動いていたという。

 そこで私はわからなくなったのだが、三菱といえば、もともと三菱の岩崎一族の加藤高明やその外相の幣原喜重郎のような「対英米協調派」ではなかったのか。なぜそのような三菱が田中光顕を放っておいたのか。鬼塚氏はこのへんの日本の権力闘争と大きな世界権力構造のつながりについてあまり説明しない。というより、鬼塚氏は太田龍門下だから、ここはロスチャイルド黒幕説なのだ。しかし、私はそれは一面的な見方であり、ロックフェラーとロスチャイルドの大財閥の闘いがあったと思う。アメリカにおいても、1921年の外交問題評議会設立後しばらくするとロックフェラーの影響力が強くなっていくということを私は『世界を動かす人脈』などの自著で立証したから、鬼塚氏のロスチャイルド史観にはかなり違和感がある。しかし、そのことは国内勢力論だけを主に論じたこの『日本の本当の黒幕』を読んでいく際にはあまり支障にならななかった。

 現段階における私のこの問題に対する回答は以下のようになる。
 
 三菱―ロックフェラーという関係はたしかに戦前においてもあっただろう。しかし、アメリカのロックフェラー財閥といえども、日本に満州利権を独占させるつもりはなかったに違いない。もともとアメリカが、太平洋進出したのは最終的には中国市場の門戸開放を果たさせるためだった。

 ところが、日本が行った大陸外交はアメリカの権益を脅かすものだった。古くは、ハリマン財閥との満州鉄道日米共同経営の話を、小村寿太郎外相が蹴ったという事実がある。日露戦争の終戦の仲介をアメリカのセオドア・ルーズベルトが行ったのも、日本を入り口に満州地方の権益を獲得し、当時の覇権国であったイギリスに対抗する狙いがあったのだと思う。ハリマンの共同経営提案を日本が蹴った後も、1909年には米国務長官が「満州鉄道中立提案」というのを行っている。

 この時点で、日本の大陸政策と門戸開放主義を中心にするアメリカ極東政策が対立を始めており、日本が関東軍による1931年の満州事変のより、満州国建国を目指すようになり、日本政府のコントロールが効かない状態になっていった。翌年には第一次上海事変が起きて、これも英米を含む列強の権益を脅かした。満州事変に関するイギリスのロスチャイルド系のリットン卿による報告書は、日本に融和的なものであったが、日本はこれを受け入れなかった。その後、日本は1933年に国際連盟を脱退して孤立化を始める。

 更に、1937年には盧溝橋事件と第二次上海事変が起きており、その後、パネー号事件というものが起きている。この事件は、日本の海軍機が揚子江を航行していた米国アジア艦隊揚子江警備船「パネー号」を攻撃、沈没させ、乗務員に対し機銃掃射を行った事件であった。重要なのは、パネー号に先導案内されていたのが、米国スタンダード・バキューム・オイル社の商船4隻と、ジャーディン・マセソン社の倉庫船と汽船黄浦号だったというところだろう。アメリカとイギリスの権益を日本海軍は大陸侵攻の過程で攻撃したということになる。

 いくら三菱系の加藤高明や幣原が融和外交を目指しても、軍縮問題で高まるナショナリズムや、三菱自身が満州事変から第二次世界大戦にかけて軍需の膨張拡大を背景に事業を飛躍的に拡大させていったこともあり、もはや大恐慌時の世界では対米協調よりもいかにして生存圏を満州や華北から華中に見出すかという事が重要になっており、それは中国大陸における英米の権益を踏みにじる事で実行されたのだろう。

 そのようなナショナリズムの原動力になっていったのが、頭山満や内田良平であり、宗教的には田中智学や大本教の勢力だったと見ることが出来、それが昭和維新の正体だろう。その黒幕が田中光顕だと見ることができる。

 しかし、「軍閥化する日本」というのは言ってみれば、「タリバン化する日本」という意味であり、アメリカはそれをコントロール出来ないとなれば、すぐに切り捨てるはずである。国内では三井の要人を暗殺することで、間接的にロスチャイルドの代理人を次々と抹殺していった田中光顕のグループは三菱系であった。三菱には表と裏の顔があるのかもしれない。

 表の顔は加藤高明(岩崎弥太郎の長女と結婚)に代表される「対米協調」の三菱。裏の顔は田中光顕の率いる裏社会の三菱だ。鬼塚氏には、アメリカを支配してきたのがロックフェラーでイギリスを支配してきたのがロスチャイルドだという視点がないので、このあたりをすごく曖昧にしているという欠点がある。鬼塚氏にしてみると、みんなロスチャイルドなのだ。やはり、それは違うと思う。

 歴史にもしがあるならば、日露戦争直後の1905年に日本がハリマン(この当時のハリマンは、戦後暗躍したアベレル・ハリマンと違い、ロックフェラー系ではない)の満鉄共同経営を受け入れて大陸の権益を、イギリスやアメリカと分け合ったらどうなっていたかと考えたい。なぜ日本はドイツと急接近してアメリカのロックフェラー財閥が育てたヒットラーと同盟を結ぶことになったのか。

 私は、満洲事変後もリットン調査団が日本に融和的な報告書を出したというところに、私は中国大陸におけるイギリスとアメリカという新旧の覇権国の勢力争いというもう一つの構図があったのだと見ている。ところが、日本の右翼は、イギリスもアメリカもともに受け入れないで、権益を独占しようとした。

 だから、当然のようにイギリスもアメリカも日本を本当に敵国としていくようになったのだろう。日本のナショナリストが軍閥化して手に負えなくなれば、三井系も三菱系も関係なく、取り潰すという判断になったのだろう。それはアルカイダを育てて、要らなくなったら、戦場に送り込んで潰すという、アメリカの発想と似ている。

 戦後の三菱財閥が、徹頭徹尾、親米路線を貫くようになったのは、戦前の反省だろう。覇権国に逆らって中国大陸の利権を独り占めしようとして、中国大陸を混乱に陥れた日本軍閥の「失敗」を嫌というほど知っているのだろう。冷戦の激化による「逆コース」がないまま、GHQの財閥解体が貫徹されたら、三菱は存在しなかったかもしれないわけだから。逆コースの号令をかけたロックフェラー系のダレス国務長官に日本の経営者は頭が上がらないのだろう。

 三菱財閥の最後の総帥は、岩崎小弥太(1879-1945)だ。岩崎小弥太について三菱グループのウェブサイトは次のように解説している。

(引用開始)

 小彌太は若い頃英国に学び、周囲には国際的な考えの人も多かったが、なにせ国内では少数派だった。軍部若手将校らは自由主義外交と財閥を目の仇にし、五・一五事件や二・二六事件などで襲撃・暗殺を繰り返した。三菱銀行本店も三井銀行本店も襲撃された。国際情勢に通じていた小彌太は、親しい外交官や軍人には平和を維持すべしと主張していた。しかし世の大勢は変わらなかった。

 1941年12月8日、日本海軍はハワイ真珠湾の米国太平洋艦隊を奇襲攻撃、太平洋戦争が始まった。開戦直後の予想以上の「大戦果」に国民は狂喜した。開戦二日目の12月10日、小彌太は三菱協議会(三菱系各社の最高幹部の集まり)を招集した。

 そのとき、彼はこう語った。

「今度の戦争は日本始まって以来の大事件だ。自分はこれまで国民の一員として政治外交上の問題にいろいろ意見を言ってきたが、ことここに至っては国の方向は明らかだ。こうなった以上は天皇の命令に従い一致協力して勝つために努力しよう」

 このあたりは、明治生まれの日本人の共通感覚である。また小彌太は男爵でもあり、天皇家を崇敬していた。だが、彼の志は次の言葉に表れている。

 「しかしこの機会に諸君に特に考えて欲しいことがある。第一は目前の情勢の変化に惑わされず常に百年の大計を立てて事に処して欲しい。この戦争は一時のことだ。何時(いつ)までも戦争が続く訳ではない。そう考えて大局を見て経営に当たって貰いたい」

「第二は英米の旧友を忘れるなということである。これまで三菱と提携してきた多くの英米の友人がいる。彼等とは今日まで事業の上で利害を共にしてきた。今や不幸にして戦火を交える両国に分かれたが、これによってこれまでの友情が変る事はありえない。国法の許す限り彼等の身辺と権益を保護すべきである。いつの日か平和が回復したら、また彼等と手を携えて、再び世界の平和と人類の福祉のために扶(たす)けあおう」
http://www.mitsubishi.com/j/history/series/koyata/koyata02.html

(引用終わり) 

 このように見ていくと、三菱4代目の岩崎小弥太はまさか日本がアメリカと戦争することになるとは思っていなかったようだ。しかし、鬼塚氏が指摘することが確かなら、その三菱から金をもらっていた、田中光顕こそが日本を戦争に引きずり込んでいった責任がある一人である。

 軍閥化した日本を太平洋戦争で敗北させたことによって、アメリカは日本を再び軍閥化させずに、うまくアメリカの代理人としてコントロールするやり方を作り上げたということになる。しかし、軍閥の名残として、戦後も児玉誉士夫から血盟団事件の生き残りの四元義隆らの裏社会の人間は残って歴代首相と密接につながっていったし、アメリカも占領政策にそれを利用した。戦犯となった岸信介は首相となり、その孫の安倍晋三が今の総理大臣であり、安倍は岩崎小弥太が設立に寄与した成蹊学園の出身である。 安倍は長州・三菱の系譜にある総理大臣であるということになる。安倍晋三の周りを見れば、それこそ「ごろつき」と言って差し支えないような、早大雄弁会あがりの自民党の政治家がそばにいる。

 しかし、戦前の歴史は資料があまりにも少ない。残されている資料だけではどうせキレイ事しか描けない。鬼塚氏は残されている資料の断片をつなぎ合わせることで、怪物ともいうべき田中光顕という人物を中心に据えて明治から、大正、昭和初期に至るまでの権力闘争を描いた。かなり鬼塚氏の独創が入っている箇所も多い本だが、引用部分がしっかりしている部分も多いので、戦前の闇を研究する人には良い出発点になっているはずだ。

 「歴史の闇に挑戦すべし」と鬼塚氏は本書の最後のページに書き残している。

 しかし、それにしても資料が少なすぎる、と私は思わざるをえない。

 ただひとつ言えることは、私には、戦前の右翼民族派の活動と、今の「靖国神社に参拝せよ」と煽り立てる右翼団体や在特会のようなよくわからない右翼活動家たちの姿は、戦前の井上日召らの姿に重なって見えるということだ。そのような勢力は戦前の大本教とも地下水脈でつながる宗教勢力とも接点を持っているだろう。そういう勢力が安倍晋三を支持しているのだと見ると、アメリカが安倍政権を嫌に忌み嫌っているのがよく分かる気がするのだ。そのような過激な右翼勢力は現在、戦前のように社会の主流を占めては居ない。
 それが幸いといえば幸いだ。確かに、アメリカという覇権国は日本の政治に深く入り込んでいる。しかし、ここで激情に任せて右も左も分からないまま、反米運動をするのでは、おそらく戦前と同じ轍を踏んでしまうことになるだろう。

 要するに、今後も日本人は世界の権力構造のバランスオブパワーを理解し、その上でうまく立ち回っていくしか無い、ということだろう。結局、戦前の日本原理主義のような「ナショナリズム一辺倒」では失敗するということだ。世界の大勢を7割は受け入れて、民族固有価値を3割は主張する。これが副島隆彦の云う「七・三の構え」という考え方である。

 戦前の日本人がハリマンの満鉄共同経営を受け入れたり、リットン調査団報告書を受け入れるだけの度量の広さが無かったことが不幸だった。戦前に駐米大使をした、ジョゼフ・グルーはその日記に意味深いことを書き残している。

「日本人はポーカーが下手だ」

けだし名言だと言わなければならない。

(記事部分引用〆)

プロフィール 
田中光顕(たなか みつあき、天保14年閏9月25日(1843年11月16日) - 1939年(昭和14年)3月28日)は、日本の武士・土佐藩家老深尾氏家臣、官僚、政治家。栄典は従一位勲一等伯爵。初名は浜田辰弥。通称を顕助、号は青山。
(資料ウィキぺデア)