戦前エリートはなぜ劣化したのか-国家を担うべき政治家、官僚、軍人は破滅に向かう日本を誰も救えなかった
エリートはなぜ失敗したのか?  磯田道史(歴史家)
文藝春秋SPECIAL 2015秋2015年08月26日 07:00
 自動車が崖に向かって猛スピードで走っている。車中の人々は、誰も前を見ず、ブレーキを修理したり、エンジンの調子を整えたりしている。運転手も視界が悪いと窓を拭くばかりで、肝心のハンドルを握っていない。 

 満州事変から敗戦に至る日本は、運転手がよそ見をして、ハンドルから手を放していたために崖から海に転落していった車に見えます。 

 運転手として、国のハンドルを切り、ブレーキを踏まなければならなかったのは誰か? それは戦前のエリートにほかなりません。政治家や官僚、軍人たちです。 

 なぜ、彼らは国の舵取りを誤ったのか? いや、それどころか、なぜそれを放棄してしまったのか? 

 それは戦前日本の失敗を考えるとき、もっとも重要な問いの一つです。 

 それを考えるために、明治維新まで時間を遡り、この国のエリートを大きく三期に分けて考えてみましょう。 

 第一期は、明治維新の志士で明治政府の創設に参画したエリートです。西郷隆盛(1827生)や大久保利通(1830生)、伊藤博文(1841生)や山県有朋(1838生)、西郷従道(1843生)といった人々です。 

 第二期は慶応年間(1865〜1868)から明治初めごろに生まれ、江戸時代の生き残りに育てられたエリートです。秋山好古(1859生)、秋山真之(1868生)、正岡子規(1867生)、夏目漱石(1867生)ら司馬遼太郎の『坂の上の雲』の主人公たちの世代です。 

 第三期は、明治の半ばから終わりごろに生まれたエリートです。彼らは明治の終わりから昭和初期に大人になり、エリートの地位を手にいれていきました。東條英機(1884生)、近衛文麿(1891生)、広田弘毅(1878生)、重光葵(1887生)、米内光政(1880生)らの名前が挙がるでしょう。ハンドルから手を放してしまったのは、この世代でした。 

 総合知に富んでいた第一期のエリート
 第一期のエリートの特徴は、非常に数が少ないことです。まだ日本の所帯が小さかったので、政治的な指導者が大勢いる必要がなかったのです。また、そのほとんどが武士でした。彼らと後のエリートとの最大の違いは、試験で選ばれた人材ではない、ということです。彼らは志士ですから、選抜試験は戦場から殺されずに生きて帰ってくることでした。 

 生き残る能力を試されながら、「あいつは学もあるし、人柄もいい」と地域の仲間うちでの声望を得ることで、選抜されていきました。その過程では、故郷をともにするものが信頼できる仲間を選んでいく「郷党の論理」がはたらいていました。この論理は、明治政府の藩閥政治を形成していったので、閉鎖的で身内びいきだと評判が悪いのですが、人物を能力だけでなく、家族構成から性格、性癖まで総合的に見られる利点を持っています。 

 一定の声望を得た人物は、藩や志士集団のなかで、何らかのポストや役割を与えられました。そこで藩の軍艦購入に大いに貢献したとか、藩の外交を担って活躍したといった、具体的な成果を上げた者が、さらに上の地位に上っていきました。今の言葉でいえば、幕末維新のエリートは、徹底した成果主義で選抜されていたのです。 

 第一期エリートの特徴は、物事を一から構想し、それを完成させる能力の鍛錬を受けていたことです。江戸期は、分業が今ほど進んでおらず、使える人やモノも限られていましたから、上に立つ人間は一から十まで段取りを整えなければ、物事を成し遂げられませんでした。第一期エリートになるような人間は、様々な現場経験を積み、スペシャリストが持つ専門知ではなく、ジェネラリストに必要な総合知を自然と備えるようになっていました。これこそ国を統べるエリートに求められるものです。 

 たとえば、薩摩藩の城下、下加治屋町に住んでいた西郷隆盛・大久保利通ら下級武士は、楠木正成への尊敬の念を厚くすると、大工でもないのに、自分たちで材木を調達して、楠公を祀る神社を建ててしまいました。西郷・大久保たちは、この神社を建てるように新しい国づくりをしたに違いありません。 

 また、私が書いた『武士の家計簿』の中でも紹介しましたが、幕末維新の時代を生きた猪山成之(1844生)は、明治政府の大村益次郎(1825生)に会計官として取りたてられたのですが、一度もやったことのない政府の軍艦の修繕を命じられました。猪山は軍艦が停泊するドックをつくることから始めて、何とかこの無理難題をやり遂げます。高い総合知を身につけていたのです。 

 第一期のエリートは、総合知とともに統治者としての知識と経験、村や藩、ひいては国家全体への責任感を持っていました。それらは数百年の間、日本で統治を担ってきた武士階級が培ってきたものでした。 

 第二期のエリートは、第一期にないものを持っていました。それは高度な専門知です。明治維新が徹底的に江戸時代の身分制を否定し、能力主義を導入したからです。 

 彼らの使命は西欧の学問や制度を輸入することでした。第一期エリートは明治政府を創設し、「富国強兵」「殖産興業」という国家目標を掲げましたが、それを実行するには、彼らの手足となってはたらいてくれる実務家、テクノクラート、スペシャリストが大量に必要でした。 

 第二期エリートが、まず取り組まなければならなかったのは、外国語の習得です。そのため彼らの多くは、イギリスやフランス、ドイツに留学し、西欧社会に飛び込みました。彼らは日本人がほとんどいない環境で外国語を学び、膨大な書籍を読み、今度はそれらのエッセンスを日本語に翻訳し、日本に持ち帰らなければなりませんでした。
 江戸時代の空気のなかで生きていた人間が、いきなり近代西欧の真っ只中に投げ込まれるという強烈な体験は、第二期エリートを劇的に進化させました。時代を画すような大きな変化が歴史に訪れたとき、新旧二つの時代をまたいで生きる人間は、新しい時代の息吹を全身で吸収し、赤子のように短期間で飛躍的な成長を遂げることがあります。そのような成長が社会に与える恩恵を、私は「人材ボーナス」と呼んでいます。第二期エリートは、まさに日本にそれをもたらしました。 

 たとえば、海軍参謀として日露戦争における日本海海戦勝利に大きく貢献した秋山真之は、1897年から三年ほど、アメリカに留学しますが、そのとき「自分が一日怠ければ、日本が一日遅れる」という言葉を残しています。それぐらいの切迫感と国家に対する責任感をもって勉強していました。秋山はまた、軍事用語を日本語に翻訳しなければなりませんでした。秋山には、自分がつくった訳語が、その後の海軍の教育や訓練、実戦で使われていくことがわかっていました。自分が訳を間違えたら、人の生死、ひいては国の存亡に関わる。秋山は常にそのような緊張感を持っていたはずです。 

 このとき秋山は元米国海軍軍人で戦略研究家のマハンに師事しました。彼の『海上権力史論』は、今でも海軍戦略を学ぶ者の必読書です。秋山はまた、1898年の米西戦争を視察しています。書物、先生、戦争、いずれをとっても秋山は「本物」から学んだのです。 

 外国語はあまり得意ではなく、専門知も十分ではないけれども、大局観を持ち、総合知に富んだ第一期エリートとスペシャリストとしての高度な教育を受けた第二期エリートの組み合わせは最強でした。その力がもっとも発揮されたのが、日露戦争です。 

 乃木希典(1849生)、児玉源太郎(1852生)、大山巌(1842生)、東郷平八郎(1847生)といった江戸時代の生き残りの大将たちが、秋山真之、財部彪(1867生)、鈴木貫太郎(1867生)ら第二期エリートを使いこなしたことで、勝利がもたらされました。

能力主義はエリートをどう変えたか
 さて、いよいよ第三期のエリートです。彼らは第二期エリートと同じ方法で選抜され、育てられましたが、明らかに劣化していきました。それはなぜでしょうか? 

 その原因は、明治政府による身分制度の徹底した否定と能力主義にあります。近代日本の身分制否定の徹底ぶりは、明治政府が近代国家を建設するにあたって範としたイギリスやフランス、ドイツ以上でした。西欧諸国は今もなお階層社会であり、エリートを輩出する階層は限られています。明治時代と同時代の西欧諸国では、軍隊の将校や外交官は、貴族によって占められていました。しかし、明治政府が初めて選抜し、育てた第二期エリートの出身階層は、教育水準が高かった武士や名主・庄屋階層が多かったものの、年を経るにつれて、急速に他の階層にも広がっていきました。 

 このことにはいい面と悪い面があります。

 いい面は、あらゆる階層に立身出世の道が拓けたことです。能力さえあれば、出世できるという希望は国民の向上心を高め、社会に活力を生み出します。国からみれば、エリートの裾野が広がり、より能力の高い人材を登用できるようになりました。 

 悪い面は、エリートが筆記試験の成績が優秀な、いわゆる学校秀才ばかりの集団になってしまいます。武士や庄屋は家庭に行政が入り込み、公の訓練を親代々みてきましたが、新しい学校秀才はそんな世代ではありません。行政の暗黙知はない。それで、多くの弊害が生まれます。 

 第一は人材の多様性が失われることです。このような集団は危機に弱い。 

 第二は筆記試験で集めた秀才に画一的な教育を施すので、専門知には長けているけれども、総合知には欠けているエリートが生まれやすいことです。 

 社会が複雑になると、専門化が進み、大量のスペシャリストが必要とされるのは確かです。ですから、エリートのスペシャリスト化が進むのは致し方ない。しかし、社会の複雑化によって、未来は予測しづらくなります。何が起きるかわからないときに絶対必要なのが、総合知を備えたジェネラリストの直観です。エリートを全部スペシャリストにしてはいけないのは、そのためです。 

 しかし、日本陸軍はトップをすべてスペシャリストにするような教育をしました。陸軍中枢を担う人材は、一五歳ぐらいで陸軍幼年学校に入学し、陸軍士官学校、陸軍大学校と進んでいきますから、知識は軍事に偏り、庶民の暮らしも知らなければ、お米も炊けません。純粋培養からは総合知など期待できません。総合知は幅広い人生経験、現場体験がなければ培われないからです。そのいい例が、近代日本の名宰相となった高橋是清(1854生)と原敬(1856生)でしょう。高橋はアメリカ商人に騙されて、奴隷として売られるなど、海千山千の経験を積んでいますし、原敬は新聞社、外務省など様々な組織を渡り歩く過程で、引き立てられていきました。 

 第三は出身階層が武士や名主・庄屋以外にも広がっていったことで、第一期、第二期のエリートが持っていた家庭教育で提供される統治者としての知識と経験、国家全体への責任感が失われていったことです。近代日本は「お国のため」「天皇のため」という名目を掲げて、出世すれば、なんでも手に入ります。表向きは国の為、本当は自分の為に、金が欲しい、愛人を囲いたい、周囲から認められたい、といった私利私欲を満たすために、エリートを目指す人々が出現してきました。夏目漱石が「帝国大学は今や月給取りをこしらえて威張っている」と嘆いたのは、そのことでした。 

 これらの弊害が極まって、第三期のエリートの劣化がもたらされました。劣化は第二期エリートでも進行していたはずです。第二期も第三期も選抜・育成方法は同じだからです。むしろ第二期エリートはなぜ、劣化しなかったのか? と問わなければなりません。 

 その最大の理由は、彼らが能力主義以前の身分制社会、すなわち江戸時代をからだで知っていたからでしょう。彼らの親は江戸時代の人々でしたし、彼らを指導したのも、江戸時代の生き残りである第一期エリートでした。しかも、武士や名主・庄屋階層の出身者が多かったので、統治者としての知識や経験、全体への責任感を自然と受け継ぐことができました。それゆえに彼らはスペシャリストになるための教育を受けながらも、ジェネラリストとして常に国家全体を考えることができたのです。 

 もう一つの大きな理由は、明治国家が持っていた切迫感や緊張感にあります。一刻も早く西欧の学問や制度を導入して、近代化をはからなければ、西欧列強に征服されてしまうかもしれない。日本全体がそのような恐怖に包まれていました。 

第三期エリートの慢心と油断
 ところが、第三期のエリートが大人になるころ、日本はロシアに勝ち、国中の緊張感がほどけました。翻訳書が多く出版されるようになり、国産の科学技術が出てきます。すると、日本語や国産品だけでも、ある程度、用が足りるようになります。必死の思いで外国の技術や制度を学ばなくとも、日本はもう立派にやっていける、という慢心と油断が生まれてきます。これが日本という小国のエリートにとって、死活的に重要な感覚を失わせてしまいました。それは、時とともに変わっていくもの、すなわち国家を取り巻く環境の変化を捉える鋭敏な感覚です。日本は周囲の状況に上手に対応して、舵を執って行かなければ、沈没してしまう国柄です。周囲の状況の変化をつぶさに観察し、感じ取る能力が、とりわけ必要とされるのは、そのためです。では、近代日本にとって、時とともに変化する環境とは、何でしょうか? それは今も昔も国際情勢と科学技術です。第三期エリートは、それらに対する鋭敏な感覚を失ってしまったのです。 

 1930年のロンドン海軍軍縮会議における「条約派」と「艦隊派」の対立には、第三期エリートの劣化が如実に表れています。この会議は英米日仏伊の海軍力のバランスをとりながら軍縮するために開かれたものですが、日本に提案された海軍力を受け容れようとした「条約派」とそれに反対した「艦隊派」の間で対立が生じました。「条約派」には、浜口雄幸(1870生)、西園寺公望(1849生)、山梨勝之進(1877生)、加藤友三郎(1861生)、鈴木貫太郎らがおり、「艦隊派」には、加藤寛治(1870生)、末次信正(1880生)らがいました。 

 後世から見ると、国際情勢を鋭敏に感じ取り、それに的確に対応していこうとしていたのは、「条約派」です。「艦隊派」は、米国海軍に敗けない戦力を維持するためには条約案は呑めない、軍隊の「兵力量」を決めるのは、天皇大権の一つである「統帥権」に属するから、それを干犯している、という論理で対抗しました。しかし、結局は第三期エリートが自分たちの身過ぎ世過ぎ、すなわちポストや予算を守るために反対していたようにしか見えません。自分たちが所属する組織の利益を守るために「統帥権」を持ち出し、天皇の威を借りるのが、第三期エリートのまずいところです。彼らには今、日本はどのような国際情勢の下に置かれていて、そのなかで生き残るためには、海軍はどうあるべきか、というジェネラリスト的な視点がまったく欠けていました。それなのに自分たちの利益を「天皇のため」「国のため」という誰も文句が言えないお題目を掲げて守ろうとする。 

 残念ながら、1930年ごろから、第三期エリートのなかで比較的、国際情勢や科学技術に鋭敏な感覚を持っていた「条約派」的なエリートは端に追いやられていきました。第三期エリートの劣化とともに、そのようなことが、あらゆる領域で起きていました。1939年のノモンハン事件では、戦車や砲兵の近代化が遅れていたため、日本陸軍はソ連に大敗を喫しました。それでもなお陸軍は、その失敗を直視せず、科学技術の遅れを精神主義で補おうとしました。そして、1941年、陸軍幼年学校出身で教科書を丸暗記することで成績を上げた東條英機が首相となりました。東條はスペシャリスト的エリートの典型で、ジェネラリスト的な部分は欠片もありません。東條は「私の肉体は天皇の意思を受けた表現体である」と自分に言い聞かせていたそうですが、逆に言えば、自分の判断というものがない。首相、陸相、参謀総長を兼任していたのですから、天皇の決断を待つのではなく、天皇を助けるために自ら決断を下すべきでした。 

 明治政府ができて、およそ70年で戦前エリートは劣化し、国は滅びました。戦後70年経った今、戦後エリートにも同じような劣化が進んでいるような気がしてなりません。統治者としての知識と経験、国家全体への責任感、幅広い好奇心と多彩な人生経験によって培われた分厚い教養と総合知、それを土台とした時とともに変化する国際情勢と科学技術への鋭敏な感覚と直観、環境の変化を想像する力……。それらが国を率いるエリートには必要です。しかし、ジェネラリストは育てることはできません。彼らを見出したら、素早くピックアップし、重要な仕事を与えることで鍛えていくしかありません。そこが難しいところです。 

 現代のスペシャリストとして育成されるエリートのなかに、そのようなジェネラリストを発生させるにはどうすればいいのか? 70年前の失敗を繰り返さないために、日本人全員が、そのことを常に考えておかなければなりません。 

■プロフィール
いそだ みちふみ 1970年生まれ。慶応義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(史学)。静岡文化芸術大学教授。著書に『武士の家計簿』『無私の日本人』など。 
(記事引用)