「上総介広常」に関する諸説
親王任国の中の一つで、その当時の巨大勢力を誇っていた「上総介」氏族に関する逸話は、『吾妻鏡』を拠り所にして話しが展開しているが、古文書の解き方にも、それぞれの解釈が入り交ざってしまう場合がある。

下記の記事は歴史検証をまとめてサイト投稿してあった内容のものを引用させて頂いた。
歴史モノは、特定記事にすると偏ってしまうので、なるべく多方面、視野から俯瞰したほうが、より本物に忠実になるので、ここでは同じ対象者を二つの視点で考察した。


太刀洗の水 頼朝はなぜ上総介広常を殺害したのか
平家物語 義経伝説
 2013-05-02 14:05:01
寿永二年(1183)の暮、木曽義仲が後白河法皇の法住寺殿を襲撃したころ、鎌倉では上総広常が謀反の疑いをかけられて梶原景時に暗殺されました。

広常は保元・平治の乱では義朝(頼朝の父)軍として戦い、平治の乱後、近江で義朝一行と別れた広常は自領に戻ります。治承四年(1180)八月、挙兵した頼朝は石橋山合戦で敗れて房総半島に逃れ、そこで再起を図るとことになりますが、広常は遅れて二万騎といわれる大軍を率いて参陣します。この時、広常は頼朝に大将としての器量がなければ討取って平家へ差出そうという二心を抱いていました。

しかし頼朝は毅然とした態度で遅参を叱ったため広常はすっかり心服したというエピソードが吾妻鏡に記されています。
この結果、大軍を従える頼朝のもとに各地の有力な武士団が続々と馳せ参じ挙兵は成功します。

富士川合戦直後、頼朝は勝利の勢いにのって京に攻め上ろうとしますが上総介広常・千葉介常胤・三浦義澄の諸将らは、まだ源氏に服属しない常陸の佐竹義政・秀義らを討ちとり東国を固めることが先決だと主張したため、頼朝はこれに従わざるをえませんでした。

房総半島に巨大な勢力を持つ上総介広常の参向は頼朝挙兵を決定づけましたが、やがて頼朝にとって広常は邪魔な存在となります。

頼朝が鎌倉に本拠を定めて間もなく、三浦一族が頼朝を本拠地三浦半島に招きます。
広常は郎党五十余人とともに出迎えますが、郎党たちが馬から降りて平伏する中、広常だけは馬から降りずに会釈しただけでした。
これを咎めた佐原十郎義連(よしつら)に対し、広常は「上総介の家ではこれまでの三代は、公私ともに下馬の礼などとったことはない。」と豪語します。

三浦館でも広常の不遜な態度は続きます。酒宴の席で岡崎義実(三浦義明の弟)が頼朝の水干をねだりました。
義実は石橋山合戦で子息を失っているので、頼朝はせめてもの慰みにと思ったのでしょう、その場で与えます。
すると広常は「このようなお召物は、自分こそが頂くべきであり、義実ごとき老将にもらう資格などあるものか。」といって口論となり、あわや大喧嘩になるところを佐原十郎義連(三浦義明の末子)が仲に入って丸くおさめます。

当時、主が身に着けていたものを拝領するということは家臣にとって大変名誉なことと考えられていました。
この間、頼朝は終始無言でしたが、後に義連に褒め言葉を与え寵臣の一人に取り立てます。

ちなみに義連は源平合戦の際、鵯越の急峻な坂を見て義経隊の荒武者がたじろぐ中、「この程度の坂は三浦では馬場よ。」と真っ先に馳せ下りた若武者です。

頼朝の意を受けた梶原景時が広常の屋敷を訪ね、双六のもつれと見せかけて広常を殺します。
ところが間もなく、広常が上総国一宮に奉納した鎧とともに頼朝の武運長久を祈る願文が現れ冤罪が判明します。

建久元年(1190)、頼朝が後白河法皇に謁見した際に「広常なくして政権の樹立はありえなかった。」と述べ、次いで広常を誅殺した理由について朝廷との関係を切り捨て東国で自立すればよいという広常の発言にあったとしています。

寿永二年十月宣旨を受け、頼朝は実力で征服していた東国の支配権を朝廷から認められましたが、次の目的、頼朝のめざす幕府実現のためには、基本的に考えの違う広常を処分しなければならなくなったということでしょう。
思想の違いの他に傲慢な態度や広常のもつ強大な武力が頼朝に警戒され、謀反を疑われる要素は多分に持ち合わせたといえます。

その後、鎌倉では東国独立論を主張する者はいなくなり、頼朝は官軍として義仲追討軍を都に送り、朝廷と妥協の道を歩み始めます。

上総介を斬った梶原平三景時は石橋山合戦では平家方について頼朝と戦っていましたが、逃走中の頼朝を見逃します。

その後、頼朝の下で御家人を統率する役目にあたる侍所の所司(準長官)として重用されますが、源平合戦では義経と対立し合戦後、頼朝に讒言し兄弟不和の原因を作ります。
 
太刀洗の水

鎌倉駅から十二所神社バス停で下り、道標に従って朝比(夷)奈切通しへ通じる旧道に入ります。太刀洗川に沿って行くとこの切通し入口付近の左手に岩間から清水が流れ落ちています。梶原景時が上総広常を討った太刀を洗ったという言い伝えが残る水、鎌倉五名水の一つです。



上総 広常(かずさ ひろつね)・上総権介(かずさごんのすけ)
上総 広常(かずさ ひろつね)は平安時代末期の武将、豪族。上総権介上総常澄の八男(嫡男)。上総介広常(かずさのすけひろつね)の呼称が広く用いられる。

房総平氏惣領家頭首であり、東国最大の勢力であった広常の加担が源頼朝挙兵の成功を決定付けたとも言われる。

上総氏は上総介あるいは上総権介(かずさごんのすけ)として上総・下総二ヶ国に所領を持ち、大きな勢力を有していた。上総は親王任国であるため、介が実質的な国府の長である。

平治の乱・家督争い

広常は、鎌倉を本拠とする源義朝の郎党であった。保元元年(1156年)の保元の乱では義朝に属し、平治元年(1159年)の平治の乱では義朝の長男・源義平に従い活躍。義平十七騎の一騎に数えられた。平治の乱の敗戦後、平家の探索をくぐって戦線離脱し、領国に戻る。

義朝が敗れた後は平家に従ったが、父・常澄が亡くなると、嫡男である広常と庶兄の常景や常茂の間で上総氏の家督を巡る内紛が起こり、この兄弟間の抗争は後の頼朝挙兵の頃まで続いている。
治承3年(1179年)11月、平家の有力家人・伊藤忠清が上総介に任ぜられると、広常は国務を巡って忠清と対立し、平清盛に勘当された。また平家姻戚の藤原親政が下総国に勢力を伸ばそうとするなど、こうした政治的状況が広常に平家打倒を決意させたと考えられる。

源頼朝挙兵
 
治承4年(1180年)8月に打倒平氏の兵を挙げ、9月の石橋山の戦いに敗れた源頼朝が、安房国で再挙を図ると、広常は上総国内の平家方を掃討し、2万騎の大軍を率いて頼朝のもとへ参陣した。
『吾妻鏡』では、『将門記』の古事をひきながら、場合によっては頼朝を討ってやろうと「内に二図の存念」を持っていたが、頼朝の毅然とした態度に「害心を変じ、和順を奉る」とある。尚、『吾妻鏡』には2万騎とあるが『延慶本平家物語』では1万騎、『源平闘諍録』では1千騎である。
 
同年11月の富士川の戦いの勝利の後、上洛しようとする頼朝に対して、広常は常陸源氏の佐竹氏討伐を主張した。広常はその佐竹氏とも姻戚関係があり、佐竹義政・秀義兄弟に会見を申し入れたが、秀義は「すぐには参上できない」と言って金砂城に引きこもる。
兄の義政はやってきたが、互いに家人を退けて2人だけで話そうと橋の上に義政を呼び、そこで広常は義政を殺す。その後、頼朝軍は金砂城の秀義を攻め、これを敗走させる(金砂城の戦い)。

『吾妻鏡』治承5年(1181年)6月19日条では、頼朝配下の中で、飛び抜けて大きな兵力を有する広常は無礼な振る舞いが多く、頼朝に対して「公私共に三代の間、いまだその礼を為さず」と下馬の礼をとらず、また他の御家人に対しても横暴な態度で、頼朝から与えられた水干のことで岡崎義実と殴り合いの喧嘩に及びそうにもなったこともあると書かれる。ただし、『吾妻鏡』は鎌倉時代後期の編纂であり、どこまで正確なものかは不明である。

誅殺 (ちゅうさつ【誅殺】とは罪をとがめて殺すこと)。
 
寿永2年(1183年)12月、頼朝は広常が謀反を企てたとして、梶原景時・天野遠景に命じ、景時と双六に興じていた最中に広常を謀殺させた。嫡男・上総能常は自害し、上総氏は所領を没収された。

この後、広常の鎧から願文が見つかったが、そこには謀反を思わせる文章はなく、頼朝の武運を祈る文書であったので、頼朝は広常を殺したことを後悔し、即座に広常の同族である千葉常胤預かりとなっていた一族を赦免した。
しかしその広大な所領は千葉氏や三浦氏などに分配された後だったので、返還されることは無かったという。その赦免は当初より予定されていたことだろうというのが現在では大方の見方である。

慈円の『愚管抄』(巻六)によると、頼朝が初めて京に上洛した建久元年(1190年)、後白河法皇との対面で語った話として、広常は「なぜ朝廷のことにばかり見苦しく気を遣うのか、我々がこうして坂東で活動しているのを、一体誰が命令などできるものですか」と言うのが常で、平氏政権を打倒することよりも、関東の自立を望んでいたため、殺させたと述べた事を記している。

広常の館跡

上総広常の館跡の正確な位置は今もって不明だが、近年、千葉県夷隅郡大原町(現いすみ市)や御宿町一帯で中世城館址の調査が行なわれ、検討が進められた。
(資料ウィキぺデア)


yoritomo
画像サイト
伝藤原隆信《伝源頼朝像》鎌倉時代, 絹本著色, 143.0 x 112.8cm, 国宝, 神護寺蔵

画像は「源頼朝」伝、である。

「広常」は、それほどの人物ではなかったのか絵がのこされていない。

この図は、とくに有名である。







わからないから、おもしろい
 いい絵は動いている感じがする。しかし絵の中に動きがなく、形式的な冷たさを感じるのが肖像画である。頭部以外は個性がない。あえて鑑賞するほどのものではないだろうと、感性のずっと奥の方で静かに鎮座していた絵だったはずなのだが、最近どうもこの絵が黙ってこちらを見ている感じがして落ち着かない。古い絵だが保存状態がいいのだろうか、それとも見慣れているためなのか、《伝源頼朝像》の色白の顔に生気が宿ってきているようで気になる。何やら難しそうな歴史画と思ったが、このすべてを見通したような目に引き寄せられ、エイッと《伝源頼朝像》を選び、絵の見方を探求してみることにした。
 《伝源頼朝像》は、神護寺三像と呼ばれる国宝三幅のうちの一幅であり、この頼朝像に加え、《伝平重盛像》《伝藤原光能(みつよし)像》が、楓(かえで)の美しい京都の山寺・神護寺(じんごじ)に残されてきた。肖像画の世界は、立ち入ろうとすると、来るなと言われているようでもあり、またわからないから、おもしろいという領域でもありそうだ。鎌倉時代(1180年代〜1333)の貴族・藤原隆信(1142〜1205)による制作と伝えられているそれらの肖像画。なかでも《伝源頼朝像》は、鎌倉幕府の初代将軍として歴史の教科書などで誰でもよく知っている絵画である。
《足利直義像》の存在
 しかし、《伝源頼朝像》について調べてみると、(1)描かれている像主の目、耳、口が南北朝時代(1336〜1392)に確立したという様式であり、(2)足利直義(ただよし)が神護寺に足利尊氏像と足利直義像を奉納したという文書「京都御所東山御文庫記録」の存在、(3)足利尊氏像が《伝平重盛像》に類似しているなど、この《伝源頼朝像》は頼朝ではなく、南北朝時代の武将足利尊氏の弟である足利直義(1306〜1352)とする説や、制作年が120年降るという1345年説など、通説とは異なる新説が投げかけられ、すでに15年ほど論争が続いているというものだった。

 この“伝”と付けられながらも絵画史を生き続けている絵の史実はどうあれ、日本の肖像画を代表する作品には変わりないのだろう。この作者も制作年も断定されることを拒んでいるような《伝源頼朝像》を、日本美術史の専門家はどのように見ているのだろうか。現代美術好きな筆者としては新説に関心を示すところだが、そうではなく『肖像画』や『肖像画の視線──源頼朝像から浮世絵まで──』の著書があり、日本絵画を広く見、伝承されてきた肖像画を長年研究している宮島新一氏(以下、宮島氏)にこの絵の魅力を伺ってみたいと思った。雪舟の時代より古くからある肖像画の未知の世界へ分け入るために、宮島氏が勤めている山形大学へ車を走らせた。
画像 http://artscape.jp/study/art-achive/1222844_1982.html
(記事引用)