アメリカ合衆国が援助した日本の核兵器開発
英語で読むかい―勉強会報告
Eaphet Newsletter No.11 日文版 2012年8月10日発行
報告者―阿川 2012年4月9日付
報告者―阿川 2012年4月9日付
National Security News Service(NSNS)の記事、United States Circumvented Laws to Help Japan Accumulate Tons of Plutoniumを金曜日の「英語で読むかい」で読んでみました。いろいろ考えさせられることがあったのですが、とりあえずいくつかのポイントに絞って記事内容、および勉強会での議論を紹介します。
記事の中で幾度か「日本の五大会社」という言い方が出てくるが、記事はその具体的な名称を開示していない。自民党政府が肩入れして産官で作り出したエネルギー産業だろうと思うが、最近では雨後のタケノコのようにあちこちにあり、整理したうえで分析的に組み立て直さないと、この記事の各段階で言及されているのが具体的にどの企業なのか、どの特殊法人なのかわからない。
「2号計画」と、「F号計画」がごちゃまぜにされているのも気になる。ときどき(朝鮮戦争の開始年など)明らかなミスも見られる。
アメリカ合衆国は戦後の調査で「日本が原爆開発をした証拠はない」と公式に発表しているが、アメリカ合衆国が日本のF号計画やニ号計画を知らなかったとしたら、福島県石川町―ウラニウム鉱石を採掘していた場所で、後には酸化ウランの精製もここで行った―への(焼夷弾によらずに機銃掃射した)空襲など、なぞが残る。
日本軍の原爆開発史を素描すると、
一)1940年5月、陸軍航空技術研究所の安田武雄中将が鈴木辰三郎に原爆は製造可能かどうか調査せよとの密命を下し、鈴木は「可能であり原料となるウラン鉱石はアジア諸国に埋蔵されている」と報告。これを受けて安田は、
1941年4月、理研の仁科研究室に研究を委託。軍の委託研究を受託すれば、研究者は兵隊にとられることなく研究を続けられたので研究者側もこれを歓迎。
二)1943年、仁科は安田に「ウラン濃縮に成功すれば原爆が作れる」と報告。東条内閣は仁科研究室に無限の予算を約束。ここから“2号研究”が本格的に始動。
三)ほぼ同時期、1943年春に、海軍もまた独自に京都大学の荒勝文策に原爆開発を依頼した。仁科の弟子でもあった湯川秀樹は、当時、京大の荒勝研究室にいた。こちらの暗号名は“F号研究”(F=Fission核分裂)。F号には海軍から酸化ウラン130キロが供与されたが、これは上海で海軍が当時の金一億円で買い求めたもの(1944年冬)とされる。F号研究は、結局成功せず「机上の空論」で終わったと言われている。
四)一方、仁科研究室では、1944年初頭、ウラン235を分離するための前段階である六フッ化ウランの製造に成功したが、そこからウラン235の分離には至る道は厳しかったという。その間に戦局は、日本の不利が明らかになっていった。
五)太平洋の要衝、サイパンが陥落し、米軍が日本本土を爆撃射程に入れた(1944年11月空襲開始)。軍部は早期に原爆を製作してサイパンを吹き飛ばす必要があった。朝鮮、マレー半島などからおよそ300キロの酸化ウランを入手していたのに加えてに、同盟国ナチス・ドイツに一トンのウランを要求し、交渉結果、二トンの酸化ウランを送ってもらうことになった。第一便のUボートで560キロ。が、途中で米軍に拿捕され、日本に届く代わりにマンハッタン計画にという。
六)日本でも、福島県石川町でウランを20%含む鉱石が発見され、学徒動員された中学生たちが採掘した。1944年4月11日、情報がなぜか米国に漏れ、石川町が空襲を受けた。1945年3月、理研の仁科研究室も空襲で焼失。6月、陸軍も研究を中止。しかし、鈴木ら軍服組は疎開先で研究続行を主張。阪大理学部に鈴木は研究室を作った。後に尼崎に移動。さらに名張に。木越ら化学班は山形に(旧制山形高校)。
七)記事では「3か月かけて現在の北朝鮮のHungman村にニ号計画全体が移設された」と書かれているが、これはハンナム(興南)村のことに違いないのだが、Hungmanという綴りも“怪しい”。洒落か?
8月6日、米国が広島に原爆投下。その6日後の8月12日、北朝鮮ハンマン村の施設で(スネル・レポートhttp://www.reformation.org/atlanta-constitution.htmlに依拠して)原爆実験に成功した、と記事は続ける。
米軍の進攻が本土まで迫ってくると、仁科はプロジェクトを(現在の北朝鮮の)ハンマンHungman村に三カ月かけて移動し、そこで広島と長崎のニュースを知ることになる。歴史家、ロバート・ウィルコックス【『日本の秘密の戦争』著者】や、アトランタ・ジャーナル・コンスティテューション【Atlanta Constitution】紙の記者、デヴィッド・スネル(David Snell)らは、仁科たちは実験に成功したと信じている【1946年、スネル・リポート、次頁写真】。
ウィルコックスは書いている。長崎に原爆が投下された3日後の1945年8月12日に日本はハンマンでの原爆実験に部分的に成功した、と。
しかし、その時点での成功は、単なる象徴的な意味しか持たなかった。日本はそれ以上の本格的な爆弾を製造する能力もなければ、ミサイル、長距離爆撃機などもなかったのだ。
ハンナム(興南)村には日本窒素肥料の大型化学工場があり、海軍と共同で重水などを生産していたことが知られている。
1999年、8月6日の西日本新聞に、当時機密解除されたばかりの米軍機密文書が掲載された。それによると、GHQは8月12日のハンナム沖30キロでの「きのこ雲」について調査しており、その調査結果は①ハンナムの化学工場で原子力関係の実験が行われていた、そして②しかしそれは「NZ計画」と呼ばれるジェット燃料実験だった、として③ソ連がハンナムを占領して以来、日ソ両科学者による共同実験が行われている、というものだ。(ソ連進攻前に軍が施設を爆破した、という説もあるようだが。)
つまり、GHQはこれを原爆実験と考えなかった。2006年8月6日放送、テレビ朝日『ザ・スクープ 終戦61年目の真実―昭和史の“タブー”に迫る 第一部:幻の原爆開発計画』も、日本が原爆実験に成功したことをガセネタと判断している。
記事はこの後、アイゼンハワーの「原子力平和利用」戦略の下で、日本の核兵器開発と“自立のためのエネルギー確保”の野望がどのようにして一歩、一歩実現していったのかを素描していく。
イギリスの日本へのマグノックス炉売却。【British Nuclear Fuels Limited(BNFL)のMagnox炉。日本初の商業炉として66年8月に運転を開始し、98年3月に運転を終了した日本原子力発電(株)の東海発電所】その後、GE(General Electric)社とWH【Westing Houseウェスティングハウス】社が、日本の原子力産業の残りの部分を急いで確保し、原子炉設計と部品などを法外な値段で日本に売りつけたこと。
高速増殖炉計画
重要なのは、その後だ。1956年に日本は「完全な核燃料サイクル」計画をぶち上げた。1956年6月に茨城県東海村に発足した「日本原子力研究所」(写真)が、この“完全な核燃料サイクル”計画立案に関与している。当時、増殖炉計画は『わが国の国情に最も適合』と考えられていた。
記事はこう語る
理論的には、通常型の原子炉で使った燃料からプルトニウムを分離することが可能で、それを新たな“増殖炉”の燃料とすることが可能と考えられた。これは、まだ誰も実現できていなかった。増殖炉計画はアメリカ合衆国からの輸入に頼っているウラニウムをフルに活用する道を開いてくれる。アメリカ合衆国への依存から抜け出せるだけでなく、爆弾の材料として最も強力だが入手困難なプルトニウムの膨大な蓄積をももたらしてくれる。
1964年10月、中共が初の原爆実験に成功して世界をあっと言わせた3ヵ月後、佐藤栄作首相はワシントンに飛び、リンドン・ジョンソン大統領と秘密裏に会見した。
佐藤はジョンソンに対して、もしアメリカ合衆国が、日本が核攻撃に晒されたときに日本の安全を保証しないのであれば、日本は独自に核爆弾を開発すると最後通牒をつきつけた。
ジョンソンは日本をアメリカ合衆国の「核の傘の下に入れる」ことを約束せざるを得なかった。この約束を得たために、佐藤は後に彼の“非核三原則”―所有せず、作らず、持ち込ませず―を打ち出すことが可能になった。佐藤がこの宣言によってノーベル平和賞を受けたのはなんとも皮肉な話だ。日本の国民も、世界の人々も、この三原則が徹底されたことは一度もなく、佐藤が核兵器開発計画の継続を認可していたことも、まったく知らされていない。
このあたりはすでに「常識」なのかもしれないけれど、選挙民には彼らが聞きたいことを言いながら「彼らの本当の幸せを理解しているのは私なのだよ」と裏では逆のことをする…この話は次の「核密約」話とつながっている。
在日米軍はほぼ常時核武装したまま横須賀や沖縄を通過していった。
記事はこう語る
佐藤・ジョンソン会談以前にも、日本はその領土内にアメリカ合衆国の核兵器が貯蔵されていることを公式には見ないふりをするという暗黙の同意があった。日本側ではこうしたことを文書に残さぬよう巧妙にことが進められたが、1981年に当時の日本大使だったエドウィン・ライシャワーが新聞のインタビューでこうした密約を暴露した。1960年に日本はアメリカ合衆国の戦艦が核兵器を搭載して日本の港および領海に入ることを口頭で許可した、というのだ。
1980年代にこの密約問題について問われた日本政府は、そのようなことはないときっぱりと否定した。条約の内容についてアメリカ合衆国と日本で理解が違うというようなことは“考えられない”と言った。その後鈴木善幸首相が外務省に事実関係の調査を命じたが、外務省はそのような密約が書かれた文書はないと答えることしかできなかった。
機密指定が解除されたアメリカ合衆国の資料が、非核三原則が偽物であることを明らかにした。その資料は、アメリカ合衆国が定期的に核兵器を日本の港に持ち込んでいたのを日本政府が黙認していたことを暴露している。アメリカ合衆国の軍事計画立案者は日本の沈黙を、核兵器の日本の港への持ち込みに対する暗黙の許可だと受け取った。何十年も横浜を母港にしているアメリカ合衆国のキティホーク航空母艦は、核兵器を常備していた。
核拡散防止条約
1970年代のはじめ、日本は核拡散防止条約を批准すべきかどうかという議論に(国民の知らないところで)揺れた。批准すれば、今までの「核兵器開発というオプション」を手放すことになる。批准しなければ核開発への野望をもっていると公言するに等しい。しかし、このジレンマに苦しんだのは日本だけではなかった。
インド、パキスタン、イスラエルもまた同様のジレンマを抱えており、結局、この四カ国が批准を見合わせた。当時の防衛長官だった中曽根康弘は1969年に自身も筆をとった政策文書中で「当面核兵器は保有しない政策をとるが、核兵器を製造できる経済的、技術的な可能性は常に保持するとともに、それについて他からの干渉は一切受けないように配慮する。」http://kakujoho.net/ndata/us_jp.htmlと書いた。
将来の核兵器開発の権利を放棄しない、ということだ。しかし、中曽根は首相になるためには佐藤の非核三原則を受け入れ、核拡散防止条約を批准する以外に道はなかった。
1975年、フォード大統領は中曽根に対して「核兵器製造ができる材料や技術を含む日本の核開発計画への不干渉」を約束し、中曽根はこのフォードの保証を受け、1976年に核不拡散条約を批准したのだ。ここでもまた、国民には彼らが聞きたいことを吹き込みながら、その裏でアメリカ合衆国との密約めいたことが堂々となされていたようだ。
記事をまた少々引用すると、
アメリカ合衆国は、引き続き日本の原子炉に濃縮ウランを供給し、使用済燃料をヨーロッパで再処理することを許可した。そして再処理されたプルトニウムは再び日本へ運ばれ、将来増殖炉で使うために備蓄された。
邪魔者、ジミー・カーター
1976年に日本が核不拡散条約に批准したにも関わらず、次の年にCIAの為に行われたある研究が、日本を
1980年までに核兵器を作る可能性がある3つの国のうちの一つと名指しした。
発展途上国やテロリストグループでも、プルトニウムや濃縮ウランを核爆弾にする技術を持っている。しかし、プルトニウム精製やウラン濃縮は非常に難しくコストのかかる仕事だ。カーターは、プルトニウムとウランの拡散を制限することで核兵器の拡散をコントロールできると考え、一九七八年に、ウランとプルトニウムの輸送の全てに議会の承認を必要とするという原子力法を作った。
この決定は、アメリカの核産業界の不評をも買った。カーターの政策はアメリカの使用済核燃料再処理計画に終止符を打ったからだ。
逆コース レーガンによるカーター政策の一掃
しかし1980年、ロナルド・レーガンの大統領就任により流れが変わった。レーガンが最初に行ったのは、アメリカが民間のプロジェクトのプルトニウム使用を禁じたカーターの核ドクトリンをひっくり返すことだった。
レーガン政権の初期、アメリカの核産業と核兵器産業に大量の資金が投入された。核弾頭設計と核増殖炉の難問解決にあたる核科学者たちには否応なしに多額の研究費が分配された。
クリンチ・リバー増殖炉プロジェクト、日本に移転
テネシー州、クリンチリバー渓谷にあるエネルギー省のオークリッジ国立研究所の実験施設で、最初の高速増殖炉は組み立てられた。
増殖炉は、核科学者たちにとっての“聖杯”となった。燃料円環は、ほぼ無尽蔵のエネルギー供給への扉を開く。クリンチリバー計画は科学技術の最先端だった。レーガン政権下で米国エネルギー省はこの計画に湯水のように資金を投入した。
1980年から87年までに160億ドルを費やした。しかし、ほぼ無制限に予算を使ったにも関わらず、増殖炉計画は成功しなかったのだ。
ドイツ、フランス、英国でもやはり増殖炉を商業レベルに乗せることはできなかった。80年代半ばの景気の減速で、軍需産業への予算が削減され、1987年、議会はクリンチリバーから資金を引き上げた。
増殖炉をライフワークと考えている科学者とエネルギー省の官僚にとって、これは悲劇だった。計画に失敗し、国の援助を絶たれてもなお、彼らは原子力エネルギーサイクルの実現を信じていた。彼らはどうしたか。
プロジェクトの日本への移転というのがその答えだった。アメリカの増殖炉計画を、その重要な部分を日本に委譲することで救済しようと考えたのだ。1987年、日本のバブル経済の資源は無限に見えた。もしどこかの国が増殖炉の実用化に成功するとしたら、それは日本だったのだ。
両サイドに供与―中国と日本との核取引
1984年、ウェスティングハウス社は100億ドル以上の原子炉の取引を中国と結んだ。この取引はアメリカの核産業にとっては思ってもみなかった収穫だった。
唯一の問題は、核の秘密を誰彼構わず売ってしまうことについては最悪の記録を中国が持っていたことだった。中国は核技術を五つの“核の無法者”―パキスタン、イラン、南アフリカ、ブラジル、アルゼンチン―に売り渡したことが知られていた。
北京は南アフリカの核爆弾に使われるであろう濃縮ウランも売り渡していた。中国はアルゼンチンに、爆弾計画に使用する重水を売り、その一方ではアルゼンチンと敵対するブラジルに核原料を売り、イランとも核関連の合意交渉をしていた。中国の核拡散の前歴はこれ以上悪くなりようがないほどひどいものだった。
この契約において、中国は核不拡散の誓約にサインすることも、燃料再処理をして核兵器に使うプルトニウムを作ることを防ぐ権利をアメリカに持たせることも、ともに拒否した。
にも関わらず、なぜこの契約は結ばれ、履行されたのだろうか。実際に中国に核を持たせないことは無理だ、ならば中国への核の供給者となることによって世界の核取引の中枢にとどまることが次善の策だと判断したのかもしれない。
その後、日本へのクリンチリバープロジェクトの移転は、アメリカ合衆国内の最大の反対者であった国防省をなんとか説得して、1986年終わりには障害はすべて取り除かれた。
移転にあたって日本の要求リストのトップにあったのは、サバンナリバーサイト(サウスキャロライナ州)にあったプルトニウム分離設備で、それは当時すでに数十にわたって、兵器に使えるプルトニウムを作り出していた。サバンナリバーでは、遠心分離機を製造、実験した。この遠心分離機は、後にアルゴンヌ国立研究所でさらにテストされた後、【茨城県東海村のリサイクル機器試験施設】RETFで使用するために、日本へ送られた。日本は、自分たちでハイグレードのプルトニウムが製造できる高性能プラントを必要としていたのだ。このプラントの建設中は、日本は精製をフランスとイギリスに頼らざるを得なかった。
アメリカのサバンナリバーでの軍事プルトニウム製造の経験は、日本の計画にとって理想的だった。他のアメリカの武器研究所も日本の計画に貢献した。ハンフォードとアイダホのアルゴンヌ西研究所は何千時間もかけて、常陽増殖炉の為のプルトニウム燃料機器のテストをした。日本の科学者たちはこれに全面的に参加し、アメリカの核兵器製造産業全体を事実上自由に使えたと言ってよかった。
記事はこう語る。
もし日本がいつか核兵器配備をしたならば、それは、この日米合意による武器使用可能な技術の全移転によって可能になったと言える。
米エネルギー省と、日本の「動力炉・核燃料開発事業団」の間に結ばれた日米合意は、反核禁止リストの多くに抵触していた。
日本が核物質を米国の合意なしに他国に移送しないという約束もなく、また、米国の合意なく米国の原子炉燃料をプルトニウムへと再処理しないという保証もなかった。
要するに結果として、アメリカは向こう30年間、日本に送られたアメリカ製の核材料の全てのコントロールを放棄したのだ。
実際、東海再処理施設の事故の際、核兵器20個分にあたる70キログラムのプルトニウムの行方が分からなくなったが、アメリカ合衆国は何も言えなかった。
敦賀原子力発電所
1995年の高速増殖炉「もんじゅ」と1997年4月の東海村再処理工場での二つの事故で、深刻な放射能漏れが起き、どちらの事故でも隠蔽工作が行われた。
最もひどかったのは高速増殖炉「もんじゅ」での火災と放射性ナトリウム漏れ事故だった。「もんじゅ」を運用していた国有企業の動力炉・核燃料開発事業団(動燃)は、国民に対し事故に関して繰り返し嘘をついた。
動燃は事故原因が写ったビデオ映像を隠そうとした。破裂した二次冷却系のパイプから二〜三トンと推定される放射性ナトリウムが漏出し、高速増殖炉技術の歴史上この種の漏洩事故としては最大のものとなった。動燃は、「もんじゅ」が日本のエネルギー計画の中で極めて重要なので、「もんじゅ」の運転継続を脅かすことはできないとして、情報隠ぺいを正当化した。国民の安全は増殖炉計画の二の次だった。
動燃は事故原因が写ったビデオ映像を隠そうとした。破裂した二次冷却系のパイプから二〜三トンと推定される放射性ナトリウムが漏出し、高速増殖炉技術の歴史上この種の漏洩事故としては最大のものとなった。動燃は、「もんじゅ」が日本のエネルギー計画の中で極めて重要なので、「もんじゅ」の運転継続を脅かすことはできないとして、情報隠ぺいを正当化した。国民の安全は増殖炉計画の二の次だった。
12月11日早朝に福井県職員たちの勇気ある行動がなければ、動燃の隠蔽工作は成功していただろう。県職員たちは発電所に立ち入りビデオテープを差し押さえた。この行動の背景には、1980年代初頭に福井県の敦賀1号機で起きた事故があった。福井県職員たちはこの事故を調査することを許可されなかった。「もんじゅ」の事故が起きたとき、職員たちは二度と同じことをしてはならないと考えた。動燃自身がビデオテープ隠しに関与していたことが暴露され、動燃幹部の一人が自殺した。
日本の核施設で深刻な問題が続発する中、第二次世界大戦以後見られなかった軍事的対応が日本人の心に戻ってきた。
1999年の春、日本の領海を侵犯したとして北朝鮮のトロール船に対して海上保安庁が砲撃。“戦後”初めて軍事的攻撃を行った。この一件は日本の攻撃性の復活を象徴したと、記事は分析する。
日本を除けば、フランス、ロシア、イギリスだけが、今もプルトニウムを重要と見なし、その商業再処理産業に何百億ドル(何兆円)も投資してきた。アメリカ合衆国は、サウス・カロライナ州バーンウエルの、サバンナ・リバー・サイトにあった唯一の再処理工場を、一度も運転することなく廃棄した。フランスのラ・アーグとイギリスのセラフィールドにある政府所有の巨大な工場だけが、海外顧客のために使用済み核燃料から何トンものプルトニウムを分離している。その最大の顧客は日本だった。
フランスとイギリスの再処理業者が日本に売ったプルトニウムは、核兵器に使用するのに十分な純度を持ち、アメリカ合衆国で採掘されたウランから作られたものも含まれている。しかしレーガン政権の日米協定のおかげで、アメリカ合衆国はこの核物質の移動と使用に関して何の影響力も行使できない。福島原発事故の後でさえ、アメリカ起源の核物質がトン単位で日本に輸送されている。輸送船1隻には何百発もの爆弾が作れるプルトニウムが積載されているのだ。
記事はこう語る。
日本人は世界で最も熱心な核兵器反対論者だが、日本の安全保障は核兵器と密接に結びついている。アメリカの核の傘は、今のところ中国や北朝鮮のような核武装した隣国に対する日本の最後の防衛線となっている。そして日本の指導者層の理由付けは、日本を守るためにアメリカが核戦争に踏み込む確証がないというものだ。中国や北朝鮮からの爆弾が国内で爆発する可能性があるので、多くの日本の指導者たちは、核の選択肢を好ましいというだけでなく不可欠だと考えるようになった。
プルトニウムの最大の顧客
フランスとイギリスは、日本という最大の顧客をロシアに取られないように、あの手この手で日本の便宜を図ってきた。需要と供給のバランスは、世界で唯一の真剣なプルトニウムの買い手である日本にとって有利だ。
英国国有企業の英国核燃料会社(BNFL)が経営するセラフィールド核再処理工場はサバンナ・リバー・サイトのイギリス版で、以前はプルトニウムの生産に特化していた。
世界中の原発で放射線照射された原子炉燃料から、貴重なプルトニウムを分離するために、6500人の地元民がここで雇用されている。トン単位でプルトニウムを生産する工場は周囲に種々の放射性廃棄物を撒き散らしているおり、工場で働く人々は肺癌、血癌などの危険に常にさらされている。
1952年以来、アイルランド海の魚貝類や海草、そしてこの地域の鳩までが、セラフィールドからの放射性廃棄物にひどく汚染されてしまった。工場は、10年間で300億リットルの放射性廃棄物を海へ放出したという。ここから日本へのプルトニウム輸送は、BNFLの子会社で、その一部を日本の電力会社連合体が所有しているパシフィック・ニュークリア・トランスポート・リミテッドが行っている。
福島の事故は、間一髪で危機を免れた日本で最初の核兵器級プルトニウム事故ではなかった。1995年3月20日、何百発の原子爆弾を作れるプルトニウム廃棄物を積載したパシフィック・ピンテイル号が、嵐の中をチリの領海に入ろうとしたとき、日本はチリの海岸を汚染する寸前だった。
以下、記事内容を抜粋。
核兵器保有を公言できる風潮
2010年9月、フランスのアレバ社は、福島第一原子力発電所3号機に、最初のプルトニウム・ベースの混合酸化物(MOX)燃料を装填した。年月が経つにつれ、さらに多数の日本の指導者たちが、軍備推進、原子力推進を大胆に表明するようになった。
2011年3月の津波と核惨事に先立つ数週間に、中国漁船の船長が海上保安庁の艦船に体当たりして逮捕されたあと、核武装した日本の問題は公然と議論されるようになった。
イギリスのインディペンデント紙との対談で、石原慎太郎東京都知事は日本が1年以内に核兵器を開発して世界に強いメッセージを送る可能性を肯定した。「日本の全ての敵国、すなわち直近の隣国である中国、北朝鮮、ロシアは核兵器を持っている。こんな状況に置かれた国が他にあるか?コストのことを話題にしたりする人がいるが、事実は、外交的交渉力とは核兵器を意味する。すべての安保理常任理事国が核兵器を保有している」と石原はインディペンデント紙に語った。「もし日本が核兵器を持てば中国は尖閣諸島に手を出そうとはしないだろう。」
都知事が声明を発表する前の週に、北京は2011年の防衛予算を13パーセント増額することを公表した。日本との緊張をさらに高めたのは、2011年1月に中国は公式に日本を抜いて世界第二の経済大国になったことである。
核武装した日本は、北方領土問題でも日本の立場を強くするだろうと都知事は語った。さらに都知事は、日本は武器の製造と輸出に関する全ての憲法上の制約を撤廃すべきだと助言した。「日本は高性能の武器を開発して国外に輸出すべきだ。アメリカが航空機産業を破壊する前には、日本は世界一の戦闘機を作った。日本はその地位を取り戻せるかもしれない。」日本の国粋主義者たちは、アメリカ占領時代にアメリカ合衆国によって書かれた日本の戦後憲法を廃棄すべきだと主張してきた。憲法は日本が戦争を始めることを禁じている。
都知事がこれらの声明を発表した1ヶ月後、福島原子力発電所でプルトニウム・ベースのMOX燃料を装填した3号機を含む、三つの原子炉がメルトダウンした。初めて日本の一般市民が、強力な日本の電力会社と日本政府との関係について、また備蓄されたプルトニウムについて、真剣な問いを発し始めた。
最初にも書いたように、この記事にはいくつか「信ぴょう性」を疑わせる部分もある。
が、多くは“すでに知られていること”であり、記事はそれらを繋いで、核兵器開発への野望を一度も捨てたことがない日本の“内部サークル”(権力者グループ)の姿を鮮明にしようとしている。同時に、アメリカ合衆国の“内部サークル”の違法行為を告発しようとしている。
日本メディアは、福島事故の影響をあえて過小評価している。事故が起きて惨事になったけど、もう終わって、後は事故現場を片づければいいのだ…そうではないだろう。
今後、少なくとも数十年にわたって、あるいはもっと長く、被爆の影響で子供たちに障害が出ることは避けられない。“内部サークル”が産官一体となって蓄積しているプルトニウムなど核物質、廃棄物の山がそのまま残されている。高速増殖炉計画、プルサーマル計画そのものが見直されているという話もない。(了)
Eaphet Newsletter No.11 日文版 2012年8月10日発行
(記事引用)
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