「ジョブズの再来」ともてはやされた女性起業家の虚構を暴く あのマードックも騙された   - 森川聡一 
WEDGE Infinity2018年07月13日 15:38
実用化できていなかった技術
 名門スタンフォード大学を中退し19歳の若さで血液検査ベンチャー、セラノスを起業したエリザベス・ホームズは、大学の教授や大物政治家、有名ベンチャーキャピタリスト、大企業トップたちを次々と味方につける。若くて美貌と知性を兼ね備えたエリザベスは、アップルのスティーブ・ジョブズの再来ともてはやされ、テレビや雑誌などマスメディアがこぞってとりあげスターダムにのしあがる。

 しかし、一滴の血液からいろんな検査をするという肝心の新技術は実はエリザベスの夢に過ぎず実用化できていなかった。世界を変える革新的なスタートアップとしてセラノスと、そのCEOであるエリザベスを世間がもてはやすなか、2015年10月にその虚像を暴くスクープ記事を掲載したのが米経済紙ウォールストリート・ジャーナルだった。その調査報道を手掛けた同紙の記者が上梓したのが本書だ。

 セラノス側は資金力を盾に全米ナンバーワンの弁護士を雇い、取材を続けるウォール紙に圧力をかけると同時に、記者の取材に応じているらしい元従業員らにも脅迫まがいの手法を使い口を封じようとする。しかし、ウォール紙が報道した後、セラノスは当局から血液検査業務の免許を取り消された。2018年3月には、アメリカのSEC(証券取引委員会)から、投資家をだましたとして提訴された。さらに、同年6月には検察当局がエリザベス・ホームズらを刑事訴追した。
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 アメリカ経済の革新性の象徴であるシリコンバレーで発生した詐欺事件で、世間を騒がせただけに、硬派の内容ながら本書は6月10日付のニューヨーク・タイムズ紙の週刊ベストセラーリスト(単行本ノンフィクション部門)で10位で初登場した。ランクイン4週目となった7月15日付リストでも8位につけた。いまや、多くの日本企業もイノベーションの種をもとめてシリコンバレーのスタートアップへお金を投じている。うますぎる話に騙されないよう、日本の経営者やビジネスパーソンたちこそ本書を手にとるべきかもしれない。


『Bad Blood』 (John Carreyrou,Knopf

各界の大物を味方につけたエリザベス
 セラノスを創業して間もなく、CEOのエリザベス・ホームズは600万ドルの資金調達に成功する。最初に、世界的に有名なベンチャー・キャピタリストであるティム・ドレイパーから1000万ドルの出資をとりつけたことが追い風となった。人脈や口コミを重視するシリコンバレーでは、有名な投資家を引き込むことで会社にはくがつく。ところが、エリザベスは幼いころドレイパーと家が近所で、その娘と友達だった縁を利用しただけだった。

 エリザベスはさらに、ドナルド・ルーカスという古参のベンチャー・キャピタリストからも出資を仰ぎ取締役にも就任してもらう。エリザベスは父親が政府系機関で働いていたときの人脈もたどり、元国務長官のジョージ・シュルツやヘンリー・キッシンジャー、今ではトランプ政権で国防長官を務めるジェームズ・マチスまで、セラノスの取締役会のメンバーに据える。ほかにも、大手銀行の元CEOや元国防長官のウィリアム・ペリーといった政財界の大物たちがセラノスの取締役に就いた。いずれも高齢で社会的な名声を確立した大物で、バイオテクノロジーの専門知識はない。才気あふれる若き美貌のCEOの魅力にほだされたといったところだろう。

 大手ドラッグストアのウォルグリーンのCEOら大手企業の経営者もエリザベスを崇拝し業務提携のために多額の資金を投じる。ウォルグリーンの社内では、話題先行で実証データを示さないセラノスの対応に疑問を持ち提携に反対する声も出た。しかし、経営トップがエリザベスを気に入り慎重論に耳を全く傾けなかったという。

 各界の大物を取り巻きとして味方につけながら、エリザベスの野望だけは大きくなる。起業家として成功することを夢見てきたエリザベスは当然ながら、スティーブ・ジョブズを崇拝しており、自身も黒のタートルネックを日ごろ着るようになりジョブズの真似をすることが多くなった。2011年11月にジョブズがなくなった直後のエリザベスの言動に関する、セラノスの従業員グレッグの次の証言は滑稽であると同時に、そうした単純な思考のCEOが率いるスタートアップが多額の資金を集めた現実に唖然とさせられる。

 A month or two after Jobs’s death, some of Greg’s colleagues in the engineering department began to notice that Elizabeth was borrowing behaviors and management techniques described in Walter Isaacson’s biography of the late Apple founder. They were all reading the book too and could pinpoint which chapter she was on based on which period of Jobs’s career she was impersonating.

 「ジョブズの死後、一カ月か二カ月たった後、グレッグのエンジニアリング部門の同僚たちは気づき始めた。エリザベスが、ウォルター・アイザックソンの手によるアップル創業者の伝記に書かれている行動や経営手法を借りていることを。みなも同じその本を読んでいたので、エリザベスが真似しているのがジョブズのキャリアのどの時期のもので、本のどの章に出ていたかをピンポイントで分かった」

 自らをジョブズの再来と信じるエリザベスの独善的な振る舞いを助長し、反対意見を許さない企業文化の醸成に一役買ったのが、セラノスのナンバー2だった通称サニーで知られる元起業家の男だった。エリザベスより20歳以上も年上にもかかわらずサニーはエリザベスと恋愛関係にあったという。

 サニーは徹夜してでも働くことを従業員たちに求め、監視カメラで社員の出社や退社時刻を監視した。社員のメールでのやり取りにも目を光らせ、会社に対して批判的なことを言う人物は次々に解雇した。辞める人間には会社の内情を洩らさないよう守秘義務契約に改めて署名することを求め秘密主義を徹底した。

 一滴の血液だけでは実際には正確に検査できないことを訴えてきた誠実な社員たちも退職を余儀なくされていく。エリザベスが新技術を開発したと対外的に喧伝していたのとは裏腹に、開発中の製品では基礎的な血液検査もできず、セラノスはシーメンスなど他のメーカーの血液検査装置を使って検査をしていた。しかも、十分な検査体制を整備せず間違いだらけの検査結果を利用者たちに伝えていた。
 たった一滴の血液だけで病気を検査する、という自分たちのビジョンを信じるあまり、それを否定する人たちの意見を全く寄せ付けなかった。自分たちのことをイノベーションで世界を変えるカリスマ経営者だと信じこんでいたのだろうか。もちろん、真に革新的なことを成し遂げるにはそれなりの信念がいるだろう。それでも、次の指摘のように現実と夢の区別がつかないようではまさに喜劇だ。

 Part of the problem was that Elizabeth and Sunny seemed unable, or unwilling, to distinguish between a prototype and a finished product.

 「問題のひとつは、エリザベスとサニーは、試作品と完成品の違いを理解できない、あるいは理解しようとしないことだった」

脚光を浴びることで崩壊が速まった
 シリコンバレーでは、これまでは夢でしかなかったことをテクノロジーの力で実現するというサクセストリーには事欠かない。その神話の磁力から逃れるのはなかなか難しい。スーパーマーケット・チェーンのセーフウェイもセラノスの虚像に取りつかれた大企業のひとつだった。店舗の一部を改装して顧客が気軽に血液検査を受けるコーナーを開設し、セラノスの製品を使う業務提携を結んでいた。計画は遅れに遅れ、セラノスとの提携を主導したセーフウェイのCEOは業績低迷の責任をとってついに退任させられる。それでも、セーフウェイは提携解消には消極的だったという。

 What if the Theranos technology did turn out to be game-changing? It might spend the next decade regretting passing up on it. The fear of missing out was a powerful deterrent.

 「もし、セラノスのテクノロジーが本当に物凄いものだとなったら、どうなる? セーフウェイは今後10年、それを見過ごしたことを後悔することになりかねない。チャンスを見逃すことになるかもしれないという恐れが、決断を鈍らせる大きな障害となった」

 シリコンバレーのスタートアップへの投資は、いま目の前にあるものへの投資ではなく、未来に大きな革新を起こすというまさに期待への投資だ。今の時点で具体的な成果がなくても、5年後、10年後に業界そのものの構造を変えてしまうイノベーションの芽があるかもしれない。だから、日本の企業も多額の資金をベンチャー企業に投じ始めている。将来への期待値が投資判断に影響するだけに目利きするのはかなり難しい。ましてや、セラノスのように、有名な投資家が株主に名を連ね、おまけに政財界の大物たちが取締役会にも名を連ねている場合、簡単に騙されてしまう経営者が出るのは想像に難くない。 

 セラノスがマスメディアで名声を築く過程では、セラノスの取締役だった元国務長官のジョージ・シュルツの果した役割が大きかった。シュルツは90歳を超える高齢にもかかわらず保守派の論客として一目おかれており、ウォールストリート・ジャーナルの論説委員会と太いパイプをもっていた。そのおかげで、ウォール紙にセラノスCEOであるエリザベス・ホームズのインタビュー記事が大きく掲載される。これがきっかけとなり2014年6月に、経済雑誌フォーチュンがエリザベスをカバーストーリーで取り上げ、エリザベスは一気に時代の寵児となる。新聞や雑誌などさまざまな媒体が競ってエリザベスを持ち上げテレビ出演も相次いだ。

 世間で脚光を浴びたことが逆に、セラノスの崩壊を速めたのは皮肉だ。いろいろな記事やインタビューのなかで、エリザベスが自社の技術の素晴らしさを訴える一方で、実証データや学術論文での裏付けなどが一切ないことに疑問を持つ専門家が出てきたのだ。そして、ウォールストリート・ジャーナルの記者である本書の筆者が本格的な調査へと乗り出す。元従業員やセラノスの血液検査サービスを利用して誤った検査結果で迷惑した開業医や患者たちに取材を重ね、セラノスの虚構をあばく記事を15年秋に報じるにいたる。重要な内部情報を記者に提供した元従業員の一人が実は、セラノスの取締役を務めるジョージ・シュルツの孫だったというのも驚きだ。

 記者が真相に迫るにつれて、セラノスの大物弁護士からの取材源への干渉も目立ち始める。大物弁護士はセラノスの株式を報酬として受け取っておりセラノスを守ることに必死だ。なんとか記事の掲載を止めようとするセラノスの弁護士がウォール紙のオフィスに来訪し、記者や編集幹部らと長時間の押し問答をするなど、報道にいたるまでの手に汗握る展開も読ませる。

調査報道を大切にするアメリカの新聞社
 なお、前述の通り、主要メディアのなかで最初に大きくセラノスのことを好意的に取り上げたのはウォール紙そのものだった。最初の記事は論説委員会が扱ったものとはいえ、同じ新聞の別の記者がセラノスの虚構を暴く記事を書くことにウォール紙の社内では何も問題はなかったのだろうか。本書の筆者は次のように書き、その疑問に答えてくれている。

 I thought: my newspaper had played a role in Holmes's meteoric rise by being the first mainstream media organization to publicize her supposed achievements. It made for an awkward situation, but I wasn’t too worried about it. There was a firewall between the Journal’s editorial and newsroom staffs. If it turned out that I found some skeletons in Holmes’s closet, it wouldn’t be the first time the two sides of the paper had contradicted each other.

 「わたしは考えた。自分の新聞は、主要メディアのなかで最初にエリザベスの偉業を報じ、彼女を一気にスターダムにおしあげるのに一役買った。やっかいな状況ではあったが、わたしはその点について悩まなかった、ウォールストリート・ジャーナルの論説委員会と報道記者の間にはファイアーウォールがある。もし、自分がエリザベスのクローゼットのなかで骸骨を発見したとしても、ウォール紙の論説委員会と報道記者の見解が相違するのは初めてのことではない」

 つまり、調査報道に従事するニュース記者の独立性が守られているわけだ。実際、不幸にしてセラノスを好意的に最初に報じたウォール紙が、手のひらを返して批判記事を掲載した事実が、調査報道を大切にするアメリカの新聞社の姿勢を如実に物語る。

 そしてもうひとつ、報道の独立性めぐるエピソードを本書は明かす。ウォールストリート・ジャーナルの親会社ニューズ・コーポレーションを率いるルパート・マードックも実は、セラノスに対し個人で100億円を超える出資をしていたのだ。本書の筆者がちょうど取材を進めている最中にセラノスは新たな資金調達を進めており、知人から紹介されてエリザベスと知り合ったマードックは何も調べずにセラノスの株式を購入したのだ。

 ウォール紙の記者はマードック個人がセラノスに出資したことを知らなかった。しかも、エリザベスはマードックに何回か接触し、ウォール紙に調査報道の記事が出ないようにしてくれと頼んだ。しかし、マードックは報道には介入しないと繰り返し答えたという。メディア王として毀誉褒貶のあるマードックだが、報道の独立性を守るその姿勢には感銘した。

 さて、ウォール紙の報道をきっかけに、凋落の道をたどったセラノスの株式をマードックはどう処分したのか。エリザベスらを相手取り訴訟を起こす投資家が多くいたなか、マードックの対応は一味違った。

 One notable exception was Rupert Murdoch. The media mogul sold his stock back to Theranos for one dollar so he could claim a big tax write-off on his other earnings. With a fortune estimated at $12 billion, Murdoch could afford to lose more than $100 million on a bad investment.

 「注目すべき例外のひとつがルパート・マードックだった。メディア王は持ち株をセラノスに1ドルで売却することで、多額の損失を税務上の損金として他の収入と相殺できた。個人資産が推定で120億ドルにのぼるマードックだからこそ、1億ドルを超える投資損失にびくともしないのだった」

 シリコンバレー神話の危うさと、アメリカのジャーナリズムの健在ぶりを示す好著である。スタートアップ投資に熱をあげる日本の経営者にはぜひ読んでほしい。

(記事引用)