北 一輝と石原莞爾のスタンス比較
北 一輝(本名:北 輝次郎)、1883年(明治16年)4月3日 - 1937年(昭和12年)8月19日)は、戦前の日本の思想家、社会運動家、国家社会主義者。二・二六事件を引き起こした皇道派青年将校の理論的指導者として逮捕され、軍法会議にかけられ、死刑判決を受け刑死した。
北 一輝(本名:北 輝次郎)、1883年(明治16年)4月3日 - 1937年(昭和12年)8月19日)は、戦前の日本の思想家、社会運動家、国家社会主義者。二・二六事件を引き起こした皇道派青年将校の理論的指導者として逮捕され、軍法会議にかけられ、死刑判決を受け刑死した。
1883年(明治16年)4月3日、新潟県佐渡郡両津湊町(現:佐渡市両津湊)の酒造業・北慶太郎と妻リクの長男輝次として生まれる。父慶太郎は初代両津町長を務めた人物で2歳下の弟は衆議院議員の北昤吉。ほかに4歳上の姉と、4歳下の弟がいた。
1897年(明治30年)に前年に創設されたばかりの旧制佐渡中学校(新制:佐渡高校)に1回生として入学、翌1898年(明治31年)にとび級試験を受け、3年生に進級する。1899年(明治32年)に眼病のため帝大病院に入院し、夏頃まで東京に滞在した。1900年(明治33年)に眼病による学業不振のため5年生への進級に失敗し、さらに父の家業が傾いたことも重なり退学した。
1901年(明治34年)には新潟の眼科院に7ヶ月間入院した。上京し幸徳秋水や堺利彦ら平民社の運動に関心を持ち、社会主義思想に接近した。1903年(明治36年)に父が死去。10月「輝次郎」と改名した。森知幾が創刊した『佐渡新聞』紙上に次々と日露開戦論、国体論批判などの論文を発表、国家や帝国主義に否定的だった幸徳たちと一線を画し、国家を前提とした社会主義を構想するようになる。北は国家における国民と天皇の関係に注目し、『国民対皇室の歴史的観察』で「天皇は国民に近い家族のような存在だ」と反論。たった2日で連載中止となった。弟れい吉が早稲田大学に入学すると、その後を追うように上京、同大学の政治経済学部生となる。有賀長雄や穂積八束といった学者の講義を聴講し、著書を読破すると、さらに図書館に通いつめて社会科学や思想関連の本を読んで抜き書きを作り、独学で研究を進める。
1906年(明治39年)に処女作『国体論及び純正社会主義』(『國體論及び純正社會主義』)刊行。大日本帝国憲法における天皇制を批判したこの本は発売から5日で発禁処分となり、北自身は要注意人物とされ、警察の監視対象となった。内容は法学・哲学・政治学・経済学・生物学など多岐に渡るが、それらを個別に論ずるのではなく、統一的に論ずることによって学問の体系化を試みた所に特徴があった。すなわち、北一輝の「純正社会主義」なる理念は、人間と社会についての一般理論を目指したものであった。その書において最も力を入れたのが、通俗的「国体論」の破壊であった。著書が発禁となる失意の中で、北は宮崎滔天らの革命評論社同人と知り合い、交流を深めるようになり、中国革命同盟会に入党、以後革命運動に身を投じる。
1911年(明治44年)に間淵ヤス(すず子)と知り合う。同年10月、宋教仁からの電報により黒龍会『時事月函』特派員記者として上海に行き、宋教仁のもとに身を寄せた。1913年(大正2年、中華民国2年)3月22日、農林総長であった宋教仁が上海北停車場で暗殺され、その犯人が孫文であると新聞などにも発表したため、4月上海日本総領事館の総領事有吉明に3年間の退清命令を受け帰国した。この経験は『支那革命外史』としてまとめられ出版される。この中で第一次世界大戦で日本が対華21カ条要求を中国に認めさせたことを批判している。
1916年(大正5年)に間淵ヤスと入籍、上海の北四川路にある日本人の医院に行った。この頃から一輝と名乗る。1919年(大正8年、中華民国8年)そこに出入りしていた清水行之助、岩田富美夫らが日華相愛会の顧問を約40日の断食後に『国家改造案原理大綱』(ガリ版47部、『日本改造法案大綱』と1923年に改題)を書き上げていた北に依頼した。1920年(大正9年、中華民国9年)8月、上海を訪問した大川周明や満川亀太郎らによって帰国を要請され、12月31日に清水行之助とともに帰国。
1921年(大正10年)1月4日から猶存社の中核的存在として国家改造運動にかかわるようになる。1923年(大正12年)猶存社が解散。「日本改造法案大綱」が改造社から、出版法違反なるも一部伏字で発刊された。これは、議会を通した改造に限界を感じ、「軍事革命=クーデター」による改造を諭し、二・二六事件の首謀者である青年将校の村中孝次、磯部浅一、栗原安秀、中橋基明らに影響を与えた。また、私有財産や土地に一定の制限を設け、資本の集中を防ぎ、さらに華族制度にも触れ、“特権階級”が天皇と国民を隔てる「藩屏」だと指摘。その撤去を主張した。
この頃東京・千駄ヶ谷、後に牛込納戸町に転居し母リクの姪・従姉妹のムツを家事手伝いとして暮らした。1926年(大正15年)安田共済生命事件。北の子分の清水行之助が血染めの着物を着て安田生命にあらわれ、会社を威嚇した。同年、北は十五銀行が財産を私利私欲に乱用し、経営が乱脈を極めていると攻撃するパンフレットを作製し、各方面にばらまいた。北の影響下にある軍人、右翼からのテロを恐れた財閥は、北に対して情報料名目の賄賂を送った。北は「堂々たる邸宅、豪華な生活」を送り、「妻子三人外に女中三人、自動車運転手一人等」を賄った。
同年、宮内省怪文書事件で逮捕。翌1927年(昭和2年)に保釈された。
1936年(昭和11年)二・二六事件で逮捕。1937年(昭和12年)8月14日、民間人にも関わらず、特設軍法会議で、二・二六事件の理論的指導者の内の一人とされ、死刑判決を受ける。5日後の8月19日、事件の首謀者の一人とされた陸軍軍人の西田税とともに銃殺刑に処された。満54歳没。
辞世の句は「若殿に兜とられて負け戦」。
人物
幼名は輝次、20歳の時、輝次郎と改名。1911年(明治44年)中国の辛亥革命に参加し宋教仁など中国人革命家との交わりを深め、中国風の「北一輝」を名乗るようになった。右目は義眼であった。早稲田大学文科聴講生の時に、階級制度の廃止や労働組合の組織等、社会主義に傾倒する。
北は、国家社会主義者として、1906年(明治39年)23歳の時、千ページにおよぶ処女作『国体論及び純正社会主義』を刊行し、大日本帝国憲法における天皇制を激しく批判した。
内務省はこれを「危険思想」と見なし、直ちに発売禁止処分とし、北は「要注意人物」として警察の監視対象となった。
日本国内での発言と行動の場を奪われた北は、宮崎滔天に誘われ、孫文らの中国同盟会に入り、1911年(明治44年)中国の辛亥革命に宋教仁らとともに身を投じることとなった。
1920年(大正9年)12月31日、北は、中国から帰国したが、このころから第一次世界大戦の戦後恐慌による経済悪化など社会が不安定化し、そうした中で1923年(大正12年)に『日本改造法案大綱』を刊行し「国家改造」を主張した。
二・二六事件慰霊碑 (東京都渋谷区宇田川町)
その後、1936年に二・二六事件が発生すると、政府は事件を起こした青年将校が『日本改造法案大綱』そして「国家改造」に感化されて決起したという認識から、事件に直接関与しなかった北を逮捕した。当時の軍部や政府は、北を「事件の理論的指導者の一人」であるとして、民間人にもかかわらず特設軍法会議にかけ、非公開・弁護人なし・一審制の上告不可のもと、事件の翌1937年(昭和12年)8月14日に、叛乱罪の首魁(しゅかい)として死刑判決を出した(二・二六事件 背後関係処断)。
死刑判決の5日後、事件の首謀者の一人とされた陸軍予備役の西田税らとともに、東京陸軍刑務所で、北は銃殺刑に処された。この事件に指揮・先導といった関与をしていない“北の死刑判決”は、極めて重い処分となった。
なお、北は、辛亥革命の直接体験をもとに、1915年(大正4年)から1916年にかけて「支那革命外史」を執筆・送稿し、日本の対中外交の転換を促したことでも知られる。大隈重信総理大臣や政府要人たちへの入説の書として書き上げた。また、日蓮宗の熱狂的信者としても有名である。 中国革命家譚人鳳の遺児を養子として引き取る。名を北大輝とし、死後彼に遺書を残す。
思想
「明治維新の本義は民主主義にある」と主張し、大日本帝国憲法における天皇制を激しく批判した。
すなわち、「天皇の国民」ではなく、「国民の天皇」であるとした。国家体制は、基本的人権が尊重され、言論の自由が保証され、華族や貴族院に見られる階級制度は本来存在せず、また、男女平等社会、男女共同政治参画社会など、これらが明治維新の本質ではなかったのかとして、再度、この達成に向け「維新革命」「国家改造」が必要であると主張した。
評価
1906年(明治39年)23歳の時に、「全ての社会的諸科学、すなわち経済学、倫理学、社会学、歴史学、法理学、政治学、及び生物学、哲学等の統一的知識の上に社会民主主義を樹立せんとしたる事なり」として大日本帝国憲法における天皇制を批判する内容も兼ねた『国体論及び純正社会主義』を著し、社会主義者河上肇や福田徳三に賞賛され、また、『日本改造法案大綱』では、クーデター、憲法停止の後、戒厳令を敷き、強権による国家社会主義的な政体の導入を主張していた。
ゆえに、北を革命家と見る意見がある。同時に、北は『日本改造法案大綱』を書いた目的と心境について、「左翼的革命に対抗して右翼的国家主義的国家改造をやることが必要であると考へ」と述べている。花田清輝は、北を「ホームラン性の大ファウル」と評している。
また坂野潤治は、「(当時)北だけが歴史論としては反天皇制で、社会民主主義を唱えた」と述べ、日本人は忠君愛国の国民だと言うが、歴史上日本人は忠君であったことはほとんどなく、歴代の権力者はみな天皇の簒奪者であると、北の論旨を紹介した上で、尊王攘夷を思想的基礎としていた板垣退助や中江兆民、また天皇制を容認していた美濃部達吉や吉野作造と比べても、北の方がずっと人民主義であると評した。
また、北は安岡正篤や岸信介にも強い影響を与えたとされている。
宗教
法華経読誦を心霊術の玉照師(永福寅造)に指導され、日頃から大きな声で読経していた事がよく知られている。北一輝は龍尊の号を持つ。弟の昤吉によると「南無妙法蓮華経」と数回となえ神がかり(玉川稲荷)になったという。
『北一輝 霊告日記』松本健一 編 第三文明社 1987年 ISBN 4-476-03127-7
1929年(昭和4年)4月 - 1936年(昭和11年)2月28日に妻のすず子が法華経読誦中神がかった託宣を自ら記録したもの。
北の日蓮理解や法華経帰依の契機などは、彼の天皇観とともに依然として定説がない。
著作史料
石原 莞爾は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。栄典は正四位・勲一等・功三級、「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られる。 関東軍作戦参謀として、板垣征四郎らとともに柳条湖事件・満州事変を起こした首謀者であるが、後に東條英機との対立から予備役に追いやられ、病気及び反東條の立場が寄与し戦犯指定を免れた。 ウィキペディア
石原 莞爾(いしわら かんじ、1889年1月18日 (戸籍の上では17日)- 1949年8月15日)は、日本の陸軍軍人。
最終階級は陸軍中将。栄典は正四位・勲一等・功三級、「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られる。 関東軍作戦参謀として、板垣征四郎らとともに柳条湖事件・満州事変を起こした首謀者であるが、後に東條英機との対立から予備役に追いやられ、病気及び反東條の立場が寄与し戦犯指定を免れた。
最終階級は陸軍中将。栄典は正四位・勲一等・功三級、「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られる。 関東軍作戦参謀として、板垣征四郎らとともに柳条湖事件・満州事変を起こした首謀者であるが、後に東條英機との対立から予備役に追いやられ、病気及び反東條の立場が寄与し戦犯指定を免れた。
幼少年時代
幼少期の莞爾と次郎
明治22年(1889年)1月18日に山形県西田川郡鶴岡(現・鶴岡市)で誕生。但し戸籍上は1月17日となっている。
父親は警察官であり転勤が多かったため、転住を重ねている。幼年期は乱暴な性格であった。利発な一面もあり、その学校の校長が石原に試験をやらせてみると、一年生で一番の成績であった。石原の三年生の頃の成績を見てみると読書や算数、作文の成績が優れていた。
また、病弱でもあり、東北帝国大学付属病院に保管されていた石原の病歴を見てみると、小児時代に麻疹にかかり種痘を何度か受けている。
石原は子供時代から近所の子供を集めて戦争ごっこで遊び、小学生の友達と将来の夢について尋ねられると「陸軍大将になる」と言っていた。
軍学校時代
青年期の莞爾と次郎
明治35年(1902年)、庄内中学二年次途中で仙台陸軍地方幼年学校に受験して合格し、入学した。石原は、ここで総員51名の中で1番の成績を維持し学業は優秀だったが、器械体操や剣術などの運動は苦手だった。
明治38年(1905年)には陸軍中央幼年学校に入学し、基本教練や武器の分解組立、乗馬練習などの教育訓練を受けた。田中智学の『妙法蓮華経』(法華経)に関する本を読み始めたのもこの頃である。成績は仙台地方幼年学校出身者の中では最高位であった。また、東京に在住していたため、乃木希典や大隈重信の私邸を訪ね、教えを乞うている。
明治40年(1907年)、陸軍士官学校に入学した。区隊長への反抗や侮辱をするなど、生活態度が悪く、卒業成績は6位であった。
士官学校卒業後は、歩兵第65連隊に復帰して、見習士官の教官として非常に厳しい教育訓練を行った。ここでは、軍事雑誌に掲載された戦術問題に解答を投稿するなどして学習していたが、箕作元八の『西洋史講話』や筧克彦の『古神道大義』など、軍事学以外の哲学や歴史の勉学にも励んでいる。盛岡藩家老で明治新政府の外交官だった南部次郎(東 政図(ひがし まさみち))よりアジア主義の薫陶を受けていたため、明治44年(1911年)の春川駐屯時には、孫文大勝の報を聞いた時は、部下にその意義を説いて、共に「支那革命万歳」と叫んだという。
陸大30期卒業生(石原は前列中央)
連隊長命令で、不本意ながら陸軍大学校を受験することになった。試験に合格し、大正4年(1915年)に入学することになる。ここでは、戦術学、戦略、軍事史などの教育を受けた。
大正7年(1918年)、陸軍大学校を次席で卒業した(30期、卒業生は60人)。首席は、鈴木率道であった。卒業論文は、北越戦争を作戦的に研究した『長岡藩士・河井継之助』であった。
在外武官時代
ドイツへ留学(南部氏ドイツ別邸宿泊)する。ナポレオンやフリードリヒ大王らの伝記を読んだ。大正12年(1923年)、国柱会が政治団体の立憲養正會を設立すると、国柱会の田中智學は政権獲得の大決心があってのことだろうから、「(田中)大先生ノ御言葉ガ、間違イナクンバ(法華の教えによる国立戒壇建立と政権獲得の)時ハ来レル也」と日記に書き残している。
関東軍参謀時代
石原が昭和2年(1927年)に書いた『現在及び将来に於ける日本の国防』には、既に満蒙領有論が構想されている。
また、『関東軍満蒙領有計画』には、帝国陸軍による満蒙の占領が日本の国内問題を解決するという構想が描かれていた。
昭和3年(1928年)に関東軍作戦主任参謀として満州に赴任した。自身の最終戦争論を基にして、関東軍による満蒙領有計画を立案する。
昭和6年(1931年)に板垣征四郎らと満州事変を実行し、23万の張学良軍を相手に、わずか1万数千の関東軍で日本本土の3倍もの面積を持つ満州の占領を実現した。
柳条湖事件の記念館に首謀者としてただ二人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。満州事変をきっかけに行った満州国の建国では「王道楽土」、「五族協和」をスローガンとし、満蒙領有論から満蒙独立論へ転向していく。日本人も国籍を離脱して満州人になるべきだと語ったように、石原が構想していたのは日本及び中国を父母とした独立国(「東洋のアメリカ」)であった。しかし、その実は、石原独自の構想である最終戦争たる日米決戦に備えるための第一段階であり、それを実現するための民族協和であったと指摘される。
二・二六事件の鎮圧
昭和11年(1936年)の二・二六事件の際、石原は参謀本部作戦課長だったが、東京警備司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭に立った。 この時の石原の態度について、昭和天皇は「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」と述懐している。
この時、ほとんどの軍中枢部の将校は、反乱軍に阻止されて登庁出来なかったが、統制派にも皇道派にも属さず、自称「満州派」の石原は、反乱軍から見て敵か味方か判らなかったため登庁することができた。
安藤輝三大尉は、部下に銃を構えさせて、石原の登庁を陸軍省入口で阻止しようとしたが、石原は逆に「何が維新だ。陛下の軍隊を私するな。この石原を殺したければ直接貴様の手で殺せ」と怒鳴りつけ、参謀本部に入った。反乱軍は、石原のあまりの剣幕と尊大な態度におされて、何もすることができなかった。
また、庁内においても、栗原安秀中尉にピストルを突きつけられ「石原大佐と我々では考えが違うところもあると思うのですが、昭和維新についてどんな考えをお持ちでしょうか」と威嚇的に訊ねられるも、「俺にはよくわからん。自分の考えは、軍備と国力を充実させればそれが維新になるというものだ」と言い、「こんなことはすぐやめろ。やめねば討伐するぞ」と罵倒し、石原の凄まじい気合いにおされて、栗原は殺害を中止し、石原は事なきを得ている。
宇垣内閣の組閣を断念させる
昭和12年(1937年)に廣田内閣が総辞職した。これにより、次期首相にはかつて軍縮に成功し、軍部ファシズムの流れに批判的であり、また中国や英米などの外国にも穏健な姿勢を取る宇垣一成大将が俄然有力視され、ついに大命降下される運びとなった。
しかし、石原莞爾参謀本部第一部長心得を中心とする陸軍中堅層は、軍部主導で政治を行うことを目論んでおり、宇垣の組閣が成れば軍部に対しての強力な抑止力となることは明白であったので、なんとしてもこの宇垣の組閣を阻止しようと動いた。石原は自身の属する参謀本部を中心に陸軍首脳部を突き上げ、寺内寿一陸軍大臣も説得し、宇垣に対して自主的に大命を拝辞させるように「説得」する命令を寺内大臣から中島今朝吾憲兵司令官に命じてもらった。中島中将は宇垣が組閣の大命を受けようと参内する途中、宇垣の車を多摩川の六郷橋で止めてそこに乗り込み寺内大臣からの命令であると言い、拝辞するようにと「説得」した。だが、宇垣はこれを無視して大命を受けた。
しかし、石原は諦めず、今度は軍部大臣現役武官制に目をつけて宇垣内閣の陸軍大臣のポストに誰も就かないよう工作した。宇垣の陸軍大臣在任中、「宇垣四天王」と呼ばれたうちの2人、杉山元教育総監、小磯国昭朝鮮軍司令官への工作も成功し、誰一人として宇垣内閣の陸軍大臣を引き受ける者はいなかった。こうして宇垣は陸軍大臣を得られず、やむなく組閣を断念し、石原の策は見事に成功した。だが、石原は後年、宇垣の組閣を流産させたこのときの自分の行動を人生最大級の間違いとして反省している。石原の反省は、宇垣の組閣断念の後の政治の流れが、石原が最も嫌う日本と中国の全面戦争、石原が時期尚早と考えていた対米戦争への突入へと動いていったことによるものである。
左遷
1930年代後半から、関東軍が主導する形で、華北や内蒙古を国民政府から独立させて勢力圏下とする工作が活発化すると、対ソ戦に備えた満州での軍拡を目していた石原は、中国戦線に大量の人員と物資が割かれることは看過しがたく不拡大方針を立てた。
1936年(昭和11年)、関東軍が進めていた内蒙古の分離独立工作(いわゆる「内蒙工作」)に対し、中央の統制に服するよう説得に出かけた時には、現地参謀であった武藤章が「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と反論し同席の若手参謀らも哄笑、石原は絶句したという。
1937年(昭和12年)の支那事変(日中戦争)開始時には参謀本部作戦部長であったが、ここでも作戦課長の武藤などは強硬路線を主張、不拡大で参謀本部をまとめることはできなかった。石原は無策のままでは早期和平方針を達成できないと判断し、最後の切り札として近衛首相に「北支の日本軍は山海関の線まで撤退して不戦の意を示し、近衛首相自ら南京に飛び、蒋介石と直接会見して日支提携の大芝居を打つ。これには石原自ら随行する」と進言したものの、近衛と風見章内閣書記官長に拒絶された。戦線が泥沼化することを予見して不拡大方針を唱え、トラウトマン工作にも関与したが、当時の関東軍参謀長・東條英機ら陸軍中枢と対立し、9月に参謀本部の機構改革では参謀本部から関東軍へ参謀副長として左遷された。
ふたたび関東軍へ・東條英機との確執
1940年に満洲国から贈られた勲一位柱国章(日本の勲一等瑞宝章に相当)の勲記
昭和12年(1937年)9月に関東軍参謀副長に任命されて10月には新京に着任する。翌年の春から参謀長の東條英機と満州国に関する戦略構想を巡って確執が深まり、石原と東條の不仲は決定的なものになっていった。石原は満州国を満州人自らに運営させることを重視してアジアの盟友を育てようと考えており、これを理解しない東條を「東條上等兵」と呼んで馬鹿呼ばわりにした。これには、東條は恩賜の軍刀を授かっていない(石原は授かっている)のも理由として挙げられる。以後、石原の東條への侮蔑は徹底したものとなり、「憲兵隊しか使えない女々しい奴」などと罵倒し、事ある毎に東條を無能呼ばわりしていく。一方東條の側も石原と対立、特に石原が上官に対して無遠慮に自らの見解を述べることに不快感を持っていたため、石原の批判的な言動を「許すべからざるもの」と思っていた。昭和13年(1938年)に参謀副長を罷免されて舞鶴要塞司令官に補せられ、さらに同14年(1939年)には留守第16師団に着任して師団長に補せられるが、これは東條の根回しによるものと考えられる。太平洋戦争開戦前の昭和16年(1941年)3月に現役を退いて予備役へ編入された。これ以降は教育や評論・執筆活動、講演活動などに勤しむこととなる。
立命館大学国防学研究所長
現役を退いた石原は昭和16年(1941年)4月に立命館総長・中川小十郎が新設した国防学講座の講師として招待された。
日本の知識人が西洋の知識人と比べて軍事学知識が貧弱であり、政治学や経済学を教える大学には軍事学の講座が必要だと考えていた石原は、大学に文部省から圧力があるかもしれないと総長に確認したうえで承諾した。昭和16年の『立命館要覧』によれば国防学が軍人のものだという旧時代的な観念を清算して国民が国防の知識を得ることが急務というのが講座設置の理由であった。さらに国防論、戦争史、国防経済論などの科目と国防学研究所を設置し、この研究所所長に石原が就任した。講師には第一次世界大戦史の酒井鎬次中将、ナポレオン戦史の伊藤政之助少将、国体学の里見岸雄などがいた。週に1回から2回程度の講義を担当し、たまに乗馬部の学生の課外教育を行い、余暇は読書で過ごした。
しかし東條による石原の監視活動が憲兵によって行われており、講義内容から石原宅の訪問客まで逐一憲兵隊本部に報告されている。
大学への憲兵と特高警察の圧力が強まったために大学を辞職して講義の後任を里見に任せた。送別会が開かれ、総長等の見送りを受けて京都を去り、帰郷した。この年の講義をまとめた『国防政治論』を昭和17年(1942年)に聖紀書房から出版した。
大学への憲兵と特高警察の圧力が強まったために大学を辞職して講義の後任を里見に任せた。送別会が開かれ、総長等の見送りを受けて京都を去り、帰郷した。この年の講義をまとめた『国防政治論』を昭和17年(1942年)に聖紀書房から出版した。
評論・政治活動
太平洋戦争に対しては、「油が欲しいからとて戦争を始める奴があるか」と絶対不可である旨説いていたが、ついに受け入れられることはなかった。石原の事態打開の策は、奇しくも最後通牒といわれるハル・ノートとほぼ同様の内容であった。戦中、ガダルカナル島の戦いにおいて海軍大佐であった高松宮宣仁親王の求めに応じ、石原は、ガダルカナル島からの撤退、ソロモン、ビスマーク、ニューギニヤの放棄、サイパン、テニアン、グアムの要塞化と攻勢終末点(西はビルマ国境から、シンガポール、スマトラなどの戦略資源地帯を中心とする)及び東南アジアとの海上輸送路の確立をすることにより、不敗の態勢が可能である旨も語っている。また、周りには中国人への全面的な謝罪と中華民国からの即時撤兵による東亜諸国との連携をも説き、中国東亜連盟の繆斌を通じ和平の道を探った。しかし、重光葵や米内光政の反対にあい、失敗した。
独ソ戦に対しては、石原は、1941年10月当時から、ドイツは地形の異なるバルカン半島においても西部戦線と同一の戦法を採っており、また東部戦線においてもその戦法に何ら変化の跡が見られないことから、ドイツはソ連に勝てないと断言していた。
『世界最終戦論』(後に『最終戦争論』と改題)を唱え、東亜連盟(日本、満州、中国の政治の独立(朝鮮は自治政府)、経済の一体化、国防の共同化の実現を目指したもの)構想を提案し、戦後の右翼思想にも影響を与える。一方で、熱心な日蓮主義者でもあり、最終戦論では戦争を正法流布の戦争と捉えていたことはあまり知られていない。
最終戦争論とは、戦争自身が進化(戦争形態や武器等)してやがて絶滅する(絶対平和が到来する)という説である。その前提条件としていたのは、核兵器クラスの「一発で都市を壊滅させられる」武器と地球を無着陸で何回も周れるような兵器の存在を想定していた(1910年ごろの着想)。比喩として挙げられているのは織田信長で、鉄砲の存在が、日本を統一に導いたとしている。
東條英機の暗殺計画
東條英機を暗殺しようとした柔道家の牛島辰熊
昭和19年(1944年)6月、柔道家の牛島辰熊と津野田知重少佐は、東條英機首相暗殺を企てた。共に東亜連盟で石原莞爾に師事していた。
津野田は、大本営参謀部三課の秘密文書を読み、予想以上の日本軍の惨敗ぶりに愕然とし、牛島辰熊に相談した。「このままでは国民は全滅だ」と悟った2人は、東條を退陣させて戦争を止めるために、皇族への「大東亜戦争現局に対する観察」という献策書を書き上げ、三笠宮、高松宮らを通じて直接天皇へ渡してもらうことにした。
2人は、献策書を持って石原が蟄居する山形県を訪ねた。石原は献策書を通読すると「一晩考えさせてくれ」と言って2人を泊まらせた。その献策書の欄外には、はっきりと「非常手段、万止むを得ざる時には東條を斬る」と書かれていたからである。次の日の朝6時、津野田と牛島を座敷に通した石原は、「今の状態では万事が手遅れだ」と言って赤鉛筆を取り、献策書末尾に「斬るに賛成」と書いた。
石原の賛意を得た津野田と牛島は、勇んで東京に戻り、暗殺方法について話し合った。結果、習志野のガス学校で極秘開発されていた青酸ガス爆弾「茶瓶」を使い、牛島辰熊が実行することになったが、直前になって東條内閣が総退陣となった。しかし、東條退陣後、どこで計画が漏れたのか、2人は9月に逮捕される。
後年、作家の増田俊也は、著書『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』の中で、この時牛島は弟子の木村政彦を鉄砲玉(実行犯)として使おうとしていたと記した。
戦後・東京裁判1945年頃の石原莞爾
極東国際軍事裁判においては戦犯の指名から外れた。東条英機との対立が有利に働いたとの見方もあるが、実際には開廷前の検事団によるA級被告選定の席で、戦犯指定された石原広一郎を石原莞爾と勘違いしたことが原因だった。事態に気づいた検事が慌てて入院中の石原莞爾に面接するが、「重態」のため調書が作れず、最終的に被告リストから外された。
東京裁判には証人として山形県酒田の出張法廷に出廷し(これは病床の石原に尋問するために極東裁判所が特設したものである)、重ねて、満州事変は「支那軍の暴挙」に対する本庄関東軍司令官の命令による自衛行動であり、侵略ではないと持論を主張した[15]。酒田出張法廷に出廷するため、リヤカーに乗って酒田へ出かけたが、この時のリヤカーを引いていたのが曺寧柱と大山倍達だといわれている。
この出張法廷では、判事に歴史をどこまでさかのぼって戦争責任を問うかを尋ね、「およそ日清・日露戦争までさかのぼる」との回答に対し、「それなら、ペルリ(ペリー)をあの世から連れてきて、この法廷で裁けばよい。もともと日本は鎖国していて、朝鮮も満州も不要であった。日本に略奪的な帝国主義を教えたのはアメリカ等の国だ」と持論を披露した。また、東條との確執についての質問には、「私には些細ながら思想がある。東條という人間には思想はまったくない。だから対立のしようがない」といい、ここでも東條の無能さをこきおろしたという。
実生活においては自ら政治や軍事の一線に関わることはなく、庄内の「西山農場」にて同志と共同生活を送った。
石原は東亜連盟を指導しながらマッカーサーやトルーマンらを批判。また、戦前の主張の日米間で行われるとした「最終戦争論」を修正し、日本は日本国憲法第9条を武器として身に寸鉄を帯びず、米ソ間の争いを阻止し、最終戦争なしに世界が一つとなるべきとし、大アジア主義の観点から「我等は国共いづれが中国を支配するかを問わず、常にこれらと提携して東亜的指導原理の確立に努力すべきである」と主張した。
終戦間もない頃、満洲事変で朝鮮軍-関東軍間の連絡将校を務めた、元陸軍少将で大亜細亜協会幹部の金子定一が石原を訪問した際、石原が自身を訪問したマッカーサーの側近に話したこととして「予は東条個人に恩怨なし、但し彼が戦争中言論抑圧を極度にしたるを悪む。これが日本を亡ぼした。後に来る者はこれに鑑むべきだ。又、日本の軍備撤廃は惜しくはない、次の時代は思いがけない軍備原子力武器が支配する」と語ったという。
病で動けなくなっていた石原は、1946年東京飯田橋の東京逓信病院に入院していた。この際、東京裁判の検事から尋問を受けているが、終始毅然とした態度を崩さず検事の高圧的な態度に怒りをもって抗議し、相手を睨みつけたという。同席した米記者マーク・ゲインは「きびしく、めったに瞬きもせず、私たちを射抜くような眼」と評している。
人物・逸話
人柄
石原は酒やタバコをたしなまなかった。菓子を食べながら議論や勉強をすることを好んでいた。ドイツ滞在中は、どこに行くのも羽織袴で押し通したとされているが、あくまでパーティーなどのときであり、普段は背広を着用し、また当時流行のコートをも着こなしていた。また、当時ドイツ国内でも「誰も見向きもしない」と評された(評価が高まりブランド化するのは後年)ライカのカメラを購入し、愛用していた。
東條英機の副官を務めた西浦進(陸士34期)は「石原さんはとにかく何でもかんでも反抗するし、投書ばかりしているし、何といっても無礼な下戸だった。軍人のくせに酒を飲まずに周りを冷たい眼で見ている、だから嫌われるのも当然だ」と評した。しかしその反面、潜在的なカリスマがあったことも事実であり、多くの信奉者が存在した。辻政信や服部卓四郎、花谷正などは初対面のときから石原の存在感に圧倒され、生涯を通じての崇拝者になった。
白人憎悪と米国への敵意
田中智学の三男であり、ベルリン時代を共にすごした里見岸雄の回顧では、研究会である大尉が「帰途、米国に立ち寄られるか」と質問すると「俺が米国に行く時は日本の対米軍司令官として上陸する時だけだ」と息巻いたという。国柱会入会直後、石原は「大正9年7月18日の夫人への手紙」で、白人を「悪鬼」と述べ、また「この地球上から撲滅しなければなりません」と憎悪を著わしている。
さらに「大正12年8月28日の夫人への手紙」では、ドイツで活動写真を見て「亜米利加物にて、排日宣伝のフィルム大いに癪に障り、大声にて亜米利加の悪口を話せば近所に居りし若干の独人大いに同意を表す」「何時かは一度たたいてやらざれば彼を救う能はざるなり」と述べている[26][27]。伊勢弘志は「日記には他にも悪化した感情が頻繁に確認される」として、国柱会入信前からの対米感情の悪化を指摘し、国柱会入信の動機の一つに「対米感情と排他的教義への共鳴があった」としている。
さらに「大正12年8月28日の夫人への手紙」では、ドイツで活動写真を見て「亜米利加物にて、排日宣伝のフィルム大いに癪に障り、大声にて亜米利加の悪口を話せば近所に居りし若干の独人大いに同意を表す」「何時かは一度たたいてやらざれば彼を救う能はざるなり」と述べている[26][27]。伊勢弘志は「日記には他にも悪化した感情が頻繁に確認される」として、国柱会入信前からの対米感情の悪化を指摘し、国柱会入信の動機の一つに「対米感情と排他的教義への共鳴があった」としている。
日蓮主義
石原が田中智学の国柱会に入会したのは1920年の会津時代であり「兵にいかにして国体を叩きこむか」に悩んで、この時期、天皇主権を唱える筧克彦の『古神道大義』を読んだり、神道、キリスト教、仏教などを研究したが「ついに日蓮に到達」し、国体と日蓮主義の同一性を説く国柱会に入会した。田中智学は日露戦争の際に「日蓮主義は日本主義なり」と戦勝祈願し、以来国柱会は「日本は特別な価値ある国」として『日本書紀』と『妙法蓮華経』(法華経)が同一であるとしており、入信の動機もその国体論にあるが、伊勢弘志は、入会動機は教えより予言であり、対米悪感情と排他的教義への共鳴だとも考察している。
幼少期・幼年学校・士官学校
幼少の頃からその秀才ぶりと奇抜な行動がエピソードとして残っている。明治28年(1895年)、子守のため姉二人が石原を学校に連れて行ったところ教室で暴れた。矢口校長が石原に試験をやらせてみると1年生では1番の成績であったため、1年間自宅で準備学習していたという名目で同年に2年生に編入することとなった。
仙台幼年学校では総員51人中最高の成績であり、代数学・植物学・ドイツ語が特に高得点であり、3年間第二位を大きく引き離して一番の成績を維持した。当時、将校には写生の技能が必要であり、授業があった。同期生一同がこれに困っていると、石原は自分の男根を写生し、「便所ニテ毎週ノ題材ニ苦シミ我ガ宝ヲ写生ス」と記して提出し、物議を醸して石原退学まで検討された。この時は校長が石原の才能を惜しんで身柄を一時預かるということで一応解決した。
石原は学校の勉強よりも戦史、政治、哲学などの文献を読み、夏休みも帰省せずに勉強した。これは両親、特に父親との関係が不仲であったことが理由とされている。
陸軍士官学校でも軍事学よりも歴史学や哲学の勉強に励んだ。一方で軍事雑誌をよく読んで興味深い戦術問題が掲載されると答案を送り、次回に示される講評や出題者意見を興味深く読んでいた。
陸軍大学に関してQuestion book-4.svg
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2015年9月)
第65連隊から一人も陸大に入学した者がおらず不名誉だとして、陸士成績が最優秀だったために石原を受験させることが本人の意思とは関係なく決められた。石原はこれを断ったが、連隊長命令によって受験させられることになった。しかし石原は一日中部隊勤務に励んでおり、同僚はいつ勉強しているのかと不安に思っていた。石原はどうせ受からないのだから勉強は不要だとして試験期間に入ってからも一切勉強しなかった。5日間の試験期間中も試験の解答をさっさと提出して勉強せずに受験会場となった駐屯地の部隊の訓練を見学した。しかし連隊からは石原だけが合格した。
陸大入試の口頭試問で「機関銃の有効な使用法」を聞かれ、「飛行機に装備して敵の縦隊を射撃する」と解答した。更にその詳細については黒板に図を書いて「酔っぱらいが歩きながら小便をするように連続射撃する」と答えた当時、機関銃を飛行機に装備する着想はまだなかった。
陸大では他兵科の運用についても学習するため夏休みには他兵科部隊勤務が実施された。その一環で砲車を車庫から出してこれを編成して行軍し、陣地に侵入するために砲列で射撃し、また車庫に収めるまでの行動を一人ずつ試験された。学生は複雑な号令で指揮することになるが、最後の番であった石原は指揮官の定位置について指揮刀を抜刀し、「いつも通りにやれ」と命令した。
陸大学生時代は成績は本来は首席であったが、何らかの都合で点数が変更されたため2位であった。これについては冬でも薄汚れた夏服を着用する石原を天皇の前で講演させることに抵抗があったという説や、石原の講演内容について大学の注文を石原が拒否したためという説、朝敵であった庄内藩出身であったためという説があり、明らかではない。
連隊長・師団長として
歩兵第4連隊(第2師団所属。本拠地は仙台)長に就任すると、貧しい東北出身の兵が満期除隊後に生活の一助となるよう、厩舎でアンゴラウサギの飼育を教え、除隊する兵に土産として持たせた。また内務班の私的制裁を撲滅するために、同じ出身地同士の兵を中隊に集めた。連隊長自身が、兵食を食べて食事内容と味の向上を図り、浴場に循環式の洗浄装置を設置して清潔なお湯を供給し、酒保を改善するなど、兵士の生活改善に尽力したといわれる。
連隊長時代、二年兵が満期除隊を迎えるのを見送っていた。ある年、羽織袴姿で並ぶ満期兵を前にして、かつての中隊長が長々と訓示をしていると突然、にわか雨が降り出したが、中隊長は訓示を止めない。その時、石原は「中隊長の馬鹿野郎、紋付きは借り物であるぞ!」と怒鳴り、訓示を中止させた。
石原が京都第16師団長の頃には、形式的な儀礼や行事を省略していった。特に陸軍記念日の際には、通常は閲兵式・分列行進で3時間かかる式典であったが、石原は指揮官一人とともに馬を駆け足で各部隊の前面を走って閲兵を済ませ、「解散」と述べて引き揚げてしまった。通常は3時間の式典が5分程で終わり、将校や見物人はあっけにとられたが、末端の兵士達は早く帰営し外出できるため大喜びだったという。
上官に対して
自分の意見は、たとえそれが上司であっても大声で直言したと伝えられる。言われた側もその意見に従わざるを得ない不思議な気迫と雰囲気を持っていたという。
石原は東條英機を嫌っていたが、東條が属する統制派と対立関係にあった真崎甚三郎も毛嫌いしていた。石原が満州から参謀本部への転勤を命じられたとき、真崎甚三郎が「君は素晴らしい逸材だ。君の新しい部署を決めるのに三月もかかったのだ」と褒めちぎった。真崎が自身を満州国から引き離す黒幕と気づいていた石原は、「陸軍の人事は私の関知するところではありません」と握手を拒み、その後も真崎の酒席の誘いを拒むなど徹底的に嫌った。
二・二六事件のとき、石原は東京警備司令部の一員でいた。そこに荒木貞夫がやって来たとき、石原は「ばか!お前みたいなばかな大将がいるからこんなことになるんだ」と怒鳴りつけた。荒木は「なにを無礼な!上官に向かってばかとは軍規上許せん!」とえらい剣幕になり、石原は「反乱が起こっていて、どこに軍規があるんだ」とさらに言い返した。そこに居合わせた安井藤治東京警備参謀長がまぁまぁと間に入り、その場をなんとかおさめたという。
上層部や上官の多くに対して嫌悪感と敵対心を顕わにした石原だが、阿南惟幾は数少ない別格で「阿南さんが言うなら……」とその指示に素直に従ったという。
技術に対しての軽視
昭和11年(1936年)8月、閑院宮春仁王が陸軍大学の研究部主事となり、昭和10年に開発されたディーゼルエンジン搭載の「八九式中戦車」の機動兵団の運用について、参謀本部や石原に意見を聞いた。しかし参謀たちはおろか、石原も大局的な国防論は話しても、戦車をどう使っていくかという戦略的な技術についてはなにひとつ聞けなかった。現場の技術者および新しい技術を軽視する立場は他の参謀たちと変わらなかった。
戦犯自称の真相
よく東京裁判の法廷において「軍の満州国立案者にしても皆自分である。それなのに自分を、戦犯として連行しないのは腑に落ちない」「満州事変の責任は自分にある。私を裁け」と述べたと書かれることが多いが、実際には『石原莞爾宣誓供述書』によると「満州建国は右軍事的見解とは別個に、東北新政治革命の所産として、東北軍閥崩壊ののちに創建されたもので、わが軍事行動は契機とはなりましたが、断じて建国を目的とし、もしくはこれを手段として行ったのではなかったのであります」と満州事変と満州国建国について、自分が意図したのではないと述べ、自らが戦犯とされるのを避けるとともに、板垣・土肥原の弁護に繋がる発言をしていた。
なお、柳条湖事件が関東軍の謀略であるという確たる証言が得られたのは、板垣・石原の指示で爆破工作を指揮した関東軍参謀花谷正が昭和30年(1955年)に手記を公表してからである。
ちなみに、石原は法廷に先立って重慶通信社の特派記者から取材を受けている。満州国の運営が理想通りに進まなかったことについて言及した後、「わしが理想郷を心に描いて着手した満州国が、心なき日本人によって根底からふみにじられたのである。在満中国人に対する約束を裏切る結果となってしまった。その意味において、わしは立派な戦争犯罪人である。独立に協力した中国人に対してまことにすまなかった、と思っている」と述べ、中国当局に独立へ協力した人々へ理解を願う発言を行っている。
※資料ウイキペディア
※資料ウイキペディア
コメント